思い出はランドセルから放って/解説

noteより転載

「思い出はランドセルから放って」の解説文です

思い出はランドセルから放って/解説


狛枝と日向はそれぞれ本編で出会うまでに歩んできた人生があるからこそ他にない共通性があり、だからこそ惹かれ合う、がテーマです。

幼体化はテーマを表現するための題材で、個性や思想が固まる前の段階で77期やお互いに出会っていたら違う人生があったのかもしれないというifを描きつつ、しかしやっぱり彼らは彼らでしかないというテーマに帰結します。

才能が全て、という価値観の一致

狛枝と日向は才能に対する価値観が似ています。才能の有無が絶対で、才能こそが人間の価値です。

他の77期にとって他人の価値は才能で決まりません。

才能がないと嘆く日向に対して、77期のみんなは才能がなくても日向は日向だと伝えます。日向にとっては自身の価値観の否定です。自分が手を伸ばしても得られなかった価値を持っている人間から価値観を否定されます。

予備学科と伝えたのち狼狽する日向を心配する77期。なお、この周辺のページはほぼ顔を見ていない。77期との価値観の違いが決定的なシーン

才能に価値があると考える日向と似た価値観を持っているのは狛枝だけです。狛枝だけが日向の価値観を肯定しています。二人は絶対に重ならない部分もあるし、完全に理解し合うこともないものの、確かに似ている部分があり、他人とは持ち得ない共通性をお互いに持っています。

二人だけに共通する価値観

日向の価値観を改める機会

原作において、才能こそが全てという価値観を改める機会が日向にはいくつかあります。育成軸・ハピダン軸・アイランド軸・本編ラストです。

いずれにせよ希望ヶ峰に入るまでは、才能こそが全てという価値観を改める出会いがありません。

日向には才能に折り合いをつけるための出会いが足りなかったと解釈しています。どこかで日向の意識の高さに見合う友人や日向が幻覚のように見てきた「希望ヶ峰本科生」の実情に出会っていればカムプロ回避はできたのかなと思ってます。

今回の本ではこの価値観を改める機会(出会い)がもし人格形成期以前にあったなら?というifを描いています。

ただ、価値観を改めてしまった日向は元の狛枝と同じ価値観を持たないため、狛枝と日向の同質性も消えます。

価値観を改めることができてしまった幼体の日向は元の狛枝が惹かれた日向と同質ではない

if世界の狛枝と日向たち

不幸で不運な自分を希望と定義した希望ヶ峰に出会う前のさらに前、不幸で不運であることを自覚する前の狛枝として、両親が亡くなる前の狛枝に戻しました。

子どもの狛枝は社交の機会がない内気な子どもとしました。

  • 120cmぐらい
  • 習い事などをしておらず、家で本(図鑑など)を読んでいる
  • 友達はいないため会話慣れしていない
  • よく怪我をするため、ひじ・膝が隠れる服だけ母親に与えられている
  • 壊れても大きな音がしないので、柔らかいものが好き

子どもの狛枝には大きな不運が起きにくいプログラムという環境に加えて、一人ではないと感じさせる日向と77期を与えました。

転ぶなどの多少の不幸はあれど、砂の城を作ることやそれに車を走らせることに対して、壊れるという想定をせず楽しむ狛枝

また、希望ヶ峰に入るためになりふり構わない日向になる前として、習い事をたくさんして、才能が芽生えると信じて失敗に怯える、希望ヶ峰に憧れる日向に戻しました。

日向は社交的で幅広い世代とコミュニケーション慣れをしていつつも憧れに一人で固執する子どもにしました。

  • 130cmぐらい
  • 希望ヶ峰に憧れていることから自分で習い事をしたがっている
  • 両親は希望ヶ峰に執着はなく、執着しているのは日向のみ
  • 経済的に裕福な家庭
  • 習い事をなんでも頑張ることから、払い甲斐があるためにやりたがっている習い事は基本的にやらせている
  • 両親は日向の努力を評価するものの、日向自身は結果主義である
  • 習い事で他校の生徒や他学年、大人と話す機会が多いため、社交的である
  • タメ口で話すと関係が深まる年上とそうでない年上を嗅ぎ分けることができる
  • 友達が多く、中学校でいわゆる「意識高い」タイプとなり話せる友人が減っていく

子どもの日向には才能に対する諦めと、才能がなくても人生を楽しめるということを教えてくれる77期を与えました。

「超高校級に」ではなく、「(楽しんで頑張っている)みんなみたいに」


大変希望的なif世界であり、幼体化した狛枝と日向たちの思い出は綺麗で未来に希望を感じさせるものの、結局ふたりは元の狛枝と日向ではなく、幼体化した二人など幻想で七海と同じく一時的データでしかありません。

タイトルの「思い出はランドセルから放って」に帰結します。そもそも子供の頃に77期とお互いに出会っていた思い出なんて元の彼らのランドセルには詰まっていません。ゴミデータ(本来のプログラムに意図されていないデータ)は放り投げて、彼らは彼らとして生きていくしかありません。

友達がくれたポプリも、一緒に描いた思い出も狛枝にはない

きれいできれいで大切な日々ですが、そんなものはどこにも存在しないのです。

なお、テーマに通じる通り、子どもの狛枝と日向は共通性が芽生えていないため、狛日ではなく狛+日のつもりで描いています。子どもの二人は恋愛関係・性愛関係には発達しない友人関係です。

七海の思い出

そのままの狛枝と日向だからこそ惹かれあうというテーマを描くために幼体と化した子どもの狛枝と日向を扱いました。
この二人はランドセルから放られるゴミデータにあたります。子どもの二人なんて本当はどこにも存在しません。

子どもの二人と同じ立場にいたのが七海でした。

みんなと離れなければならない七海

七海は原作本編ED・アイランドEDにて本来持たないはずの感情を持ちました。
日向くんの価値観の改めと同様に、他の方法でも七海は感情を持てると信じ、その一種を描いています。

湧いてきた寂しさを喜ぶ七海

この修学旅行はみんなにとっては20年弱生きた人生の50日でしかありません。しかし、この七海にとってはこの50日が人生の全てです。

精神年齢に重なりがある子どものふたりと楽しく遊んだり、幼体の日向に教わったり、この七海にとってふたりと77期と過ごした時間はかけがえない思い出になるように描きました。

近い精神年齢。基本的に子供扱いする考えが希薄

狛枝と意見が反するのも当たり前です。彼女にとっては二人と過ごした日々は人生のほとんどを占めており、大切な思い出です。七海のふたりを想う感情も、狛枝の元の日向を想う感情も、どちらも間違っていません。

生きてきた人生が異なる二人


ちなみに私は前作のRewindでも意図的に七海を復旧させませんでした。

komaeda nagito, hinata hajime, super danganronpa 2 / Rewind – pixiv pixiv www.pixiv.net

七海はプログラムで、もう亡くなっています。ただ亡くなったからといって何も残さなかったのではなく、過ごした日々は日向たちの中に残っています。

原作と立場を逆転し、数十日だけ生きたゴミデータであるふたりから七海に対して何か残せれば、七海も子どものふたりも救われると考えて描きました。

七海から子どもの日向へのありがとう

でも、ランドセルに思い出はない

※boothのみにあるおまけ版の話

会場限定のおまけ版では、この話の先で、未来で生きる二人を描きました。

おまけ・冒頭

狛枝も日向も、幼体となった日々にあまり興味はありません。狛枝は少しの間子どもの日向と一緒にいたはずですが、あまり記憶に残しておらず執着もありません。

七海・他の77期そしてもしかしたら読んでいる方々にとっても思い出となった子どもの二人の日々は、現状の狛枝と日向にとっては何も価値がなく思い出ではないという二人だけの共通性を描いています。

子どもの日向がかつて子どもの狛枝を撫でたように、大人になった日向は狛枝を撫でます。確かにどこか似通うものはあれど、ここにいる二人はそれぞれの人生を生きて、今は二人で生きています。二人のランドセルには思い出なんてありません。

夏休みは終わる

77期には贖罪や後悔がつきまといます。

傷つけた日々を後悔して、あの時に戻れたら…を他の人よりたくさんたくさん思っています。

しかし、悪夢のような、そして夢のようなプログラムは終わり、彼らは未来を創ることを選びます。

善良に生きれたifなどありません。

だから私は誰より苦しんで未来を選ぶ77期が好きです。前作と同じく、狛枝と日向だけではなく77期を描けてよかったです。

読むには5分も必要ないお話ですが、読んでくださった方にも何か思うところを残せたなら、たった150日程度、されどかつてなく大変だったこの漫画を描けてよかったな、と思います。

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