沢村
2025/12/29 13:20
もう2025年も終わってしまいますね。かなり今年一年は早かったような、しかしそれなりに色んなもの事が動いたような、そんな気がします。今年にこの交換日記にお誘いいただいたのも、よきタイミングと言いますか。
しかしやはり、結構考えていることが違いますね。面白いです。色んな感性、思考の人間がいることは当たり前と言えば当たり前なのですが、こうやって交差している我々の間の相違がガッツリ存在するのが、人間オブ人間やで……という気持ちになり、興味深いです。
大学に戻ったら、の話、やはり戻っても巡り会えないか……としょんもりし、しかし今だからこその、この関係性なのが貴重なものですよね。うんうん。インターネットがある時代に生まれてよかった! その瞬間、互いの好きが交差してよかった! 「同門に同じ時間に存在する」より遥かに確率的に低い出会い方ですし、そっちの方がミラクルで楽しいですね笑
さてさて、私は法学部卒ですが、さぶろうさんのように構造化や仕組み化に惹かれたわけでも、そこが得意なわけでもありません。法学部に入った理由は、他に受かった学部よりも就職に有利そうで、卒業論文がないから! これに尽きます。
法学は、さぶろうさんがおっしゃったような解釈によってどこまで現実を網羅しうるか、その解釈を倫理に基づき複雑怪奇な現実問題にどう適用させるか、適用するために、どう法律を作るか……というところが楽しくも苦しい部分であるように思いますし、一線の先生方もそこでよくギリギリ議論を詰めています。しかし卒業して最も身につくのは、「こじつけ」力な気もしています、うぅ。最も、事実を積み上げて正解に辿り着く系の訓練をしている方々には看破されてしまうのですが、法律は結論ありきでそこをどう「納得」させるか、みたいなところがございまして、剛腕というか、なんというか。経済学や統計学、そして多くの理系の学問のような絶対的な正しさに憧れてしまいます。体感結構適当なんですよね、法律。適当だからこそ、相対的な目は必要かもしれないですが。
理系に行っていたら、というところでは、おお、やはり別人間! とまたも嬉しくなりました。私は多分生まれ変わっても、理系には行かないのです。行けない、が正しいか……。受験数学こそ記憶でなんとかカバーしていましたが、日常生活で「税抜き………………………………………………あ、割る1.1?」くらいの才能のなさなので、致し方なし。特許の明細書なんか読んだ日には、「これはもう、魔法やで」と。私はタタラ場、そなたは森、そういう気持ちでおります。(でも結構、政経の人にも同じ気持ち)。
広告研究会というかなりゴリゴリの場所にさぶろうさんがいらっしゃって、その思想や思考が根付いているというのは納得できるような、意外なような、不思議な気持ちです。人生の選択が人間を作り上げるといいますから、その時の苦しみや努力が今のさぶろうさんの大事なところを形成しているのでしょうね。いやあの感じとあの大変そうさから、逃げないのがすごい。でももしかすると、さぶろうさんのおっしゃる「同門」って、広告研究会の印象が強いのかもしれないと思いました。少なくとも私が出会ってきて大学時代に関わった人間は、強者的テンプレート人間ばかりではありませんでした。(そういう人もまぁ勿論一杯いる)。どちらかというと、斜めな割に妙な行動力を備えた人間たち。おそらく、私がサークルにも所属せず、ゼミからもあぶれてしかしその辺でジャンプを読んでいる姿に、どこかシンパシーを感じたのでは、と。あるいは、彼ら彼女らも「表」ではテンプレ価値観やテンプレ趣味を自分のものとして口にするのかもしれませんが。うん、そう思うとやはりインターネットを通じて出会うのって、基本が「裏」スタートで、「表」は後からついてくるというか、そこで引かなくて済むというか、そういうところがいいのかも。
さて、色々話してしまいましたが、年内行事の話! 2025年殆ど買い物らしい買い物をしていないので、年内行事でいかせていただきます笑
我が家は核家族を極めており、父親があまり休みのない多忙系サラリーマンだったため、お盆も年末も基本的に家にいました。やることと言えば、「人並み」くらいのイベント感だったと思います。正月、おせちとお年玉と初売りと初詣。雛人形、飾る。クリスマス、サンタ来る、ケーキ食べる。みたいな。何かを湯に浮かべる系の日は、ちゃんとそれを買ってきて浮かべたり、七草粥は作って食べたりする一方で、そういえば墓参りには人生で一回も行ったことがありません。つい最近まで両祖父母が生きていたので(今も3人元気に90を超えている)、その機会がなかったんですよね。だから「ぼくの夏休み」的なムードは、フィクションの存在です。今現在も、年末年始だからといって地元から出ることはないので、暇です。皆、すごく、帰省する……。
大晦日から元旦は、昔からワクワクする行事でした。三兄弟なので(兄・私・弟)、大晦日は朝からゲームをするのが通例でした。「1日1時間」ルールはこの日を限って撤廃され、全員でエアライダーやポケモンスタジアムやマリオパーティをしたり、弟の「キングダムハーツRTA」を見守ったりしました。15時頃になると、365日空いているスーパーにノロノロ連れ立って歩き、3人で1500円分、お菓子やジュースを好きなように買うのです。私は夜起きているのが苦手な子供だったので、コーヒー牛乳を買い、夜に備えました。
いたりいなかったりする父親と、いつもいてくれる母親と兄弟で、夜には鍋をつつきます。大概肉団子と鴨肉が入っていて、〆に蕎麦です。一年間の家族の思い出ランキングを発表し、まぁなんだかんだ今年も皆大きくなったねぇなんて言われます。惰性で紅白、ゆく年くる年。アイスを食べようと思って買っていても、大体もうお腹がいっぱいで食べられず、22時頃からは眠くて眠くて仕方ありません。でも絶対に起きるぞ! という意思を持ち、本を読んで24時を待ちます。24時になった瞬間、寝室で倒れます。そこまで頑張って起きる意味など一ミリもないのに。字面にすると、ものすごく普通で、ささやかな年越しですね。元旦は、近所の初詣に行った後、父親から2000円もらってBOOKOFFでどか買いするというのが慣わしでしたが、BOOK OFF、潰れました。悲しい。
今はどうでしょうね。大人になってからも、実家に行って親が買ってくれたおせちを食べて、近所の神社にノロノロ歩いて行きます。年中行事、気合が入らないのですが、なんとなく回収しなくてはならないイヤーリーミッションのような感じで、ポツポツこなしてはおります。あっ初売り! 初売り愛好家です! 地元の伊勢丹に絶対絶対行きます。大好きです、初売り!! なんらかニットを買う、というのが私の信念の行事の一つかもしれません。それからウィスキーをガバガバに飲みます。新年は酔っ払ってもいいのだ、ということになっています。いつも酔っ払っている気もするけど。
フランスパンにクリームチーズといくら、おしゃれで美味しそうで最高で、新年っていうよりNEW YEARって感じで良きですね。私は数の子が好きで、ちみちみプチプチ楽しんで食べています。ハッピー。あと新年にかこつけて上生菓子を食べたくて、高いなぁと思いながら毎年買って食べています。
私にとって年中行事は、結構自分の家、それも子供時代の記憶で再生されるものですね。学校が全くもって楽しくなかったので、家にいられる年末年始は特に好きでした。今でも勿論、仕事が休みなので好きです笑
さて、次回は2026年のさぶろうさんにお会いできますね。目標をお尋ねしたいと思いましたが、もう日記に書いてくださっていたので。
懐古厨のように過去のことばかりで申し訳ないのですが、さぶろうさんって小中学生のとき、どんな子供でどんなものがお好きでしたか? 私は結構、廊下に立っていました笑 多分さぶろうさんは立ってないんじゃないかな。もしあまり筆が乗らなければ、「今手元にある1000万円を必ず24時間以内に消費せよ(旅行の入金はOKとするが、投資や貯蓄、保険などはNGとする)」を聞いてみたいです。畳む
しかしやはり、結構考えていることが違いますね。面白いです。色んな感性、思考の人間がいることは当たり前と言えば当たり前なのですが、こうやって交差している我々の間の相違がガッツリ存在するのが、人間オブ人間やで……という気持ちになり、興味深いです。
大学に戻ったら、の話、やはり戻っても巡り会えないか……としょんもりし、しかし今だからこその、この関係性なのが貴重なものですよね。うんうん。インターネットがある時代に生まれてよかった! その瞬間、互いの好きが交差してよかった! 「同門に同じ時間に存在する」より遥かに確率的に低い出会い方ですし、そっちの方がミラクルで楽しいですね笑
さてさて、私は法学部卒ですが、さぶろうさんのように構造化や仕組み化に惹かれたわけでも、そこが得意なわけでもありません。法学部に入った理由は、他に受かった学部よりも就職に有利そうで、卒業論文がないから! これに尽きます。
法学は、さぶろうさんがおっしゃったような解釈によってどこまで現実を網羅しうるか、その解釈を倫理に基づき複雑怪奇な現実問題にどう適用させるか、適用するために、どう法律を作るか……というところが楽しくも苦しい部分であるように思いますし、一線の先生方もそこでよくギリギリ議論を詰めています。しかし卒業して最も身につくのは、「こじつけ」力な気もしています、うぅ。最も、事実を積み上げて正解に辿り着く系の訓練をしている方々には看破されてしまうのですが、法律は結論ありきでそこをどう「納得」させるか、みたいなところがございまして、剛腕というか、なんというか。経済学や統計学、そして多くの理系の学問のような絶対的な正しさに憧れてしまいます。体感結構適当なんですよね、法律。適当だからこそ、相対的な目は必要かもしれないですが。
理系に行っていたら、というところでは、おお、やはり別人間! とまたも嬉しくなりました。私は多分生まれ変わっても、理系には行かないのです。行けない、が正しいか……。受験数学こそ記憶でなんとかカバーしていましたが、日常生活で「税抜き………………………………………………あ、割る1.1?」くらいの才能のなさなので、致し方なし。特許の明細書なんか読んだ日には、「これはもう、魔法やで」と。私はタタラ場、そなたは森、そういう気持ちでおります。(でも結構、政経の人にも同じ気持ち)。
広告研究会というかなりゴリゴリの場所にさぶろうさんがいらっしゃって、その思想や思考が根付いているというのは納得できるような、意外なような、不思議な気持ちです。人生の選択が人間を作り上げるといいますから、その時の苦しみや努力が今のさぶろうさんの大事なところを形成しているのでしょうね。いやあの感じとあの大変そうさから、逃げないのがすごい。でももしかすると、さぶろうさんのおっしゃる「同門」って、広告研究会の印象が強いのかもしれないと思いました。少なくとも私が出会ってきて大学時代に関わった人間は、強者的テンプレート人間ばかりではありませんでした。(そういう人もまぁ勿論一杯いる)。どちらかというと、斜めな割に妙な行動力を備えた人間たち。おそらく、私がサークルにも所属せず、ゼミからもあぶれてしかしその辺でジャンプを読んでいる姿に、どこかシンパシーを感じたのでは、と。あるいは、彼ら彼女らも「表」ではテンプレ価値観やテンプレ趣味を自分のものとして口にするのかもしれませんが。うん、そう思うとやはりインターネットを通じて出会うのって、基本が「裏」スタートで、「表」は後からついてくるというか、そこで引かなくて済むというか、そういうところがいいのかも。
さて、色々話してしまいましたが、年内行事の話! 2025年殆ど買い物らしい買い物をしていないので、年内行事でいかせていただきます笑
我が家は核家族を極めており、父親があまり休みのない多忙系サラリーマンだったため、お盆も年末も基本的に家にいました。やることと言えば、「人並み」くらいのイベント感だったと思います。正月、おせちとお年玉と初売りと初詣。雛人形、飾る。クリスマス、サンタ来る、ケーキ食べる。みたいな。何かを湯に浮かべる系の日は、ちゃんとそれを買ってきて浮かべたり、七草粥は作って食べたりする一方で、そういえば墓参りには人生で一回も行ったことがありません。つい最近まで両祖父母が生きていたので(今も3人元気に90を超えている)、その機会がなかったんですよね。だから「ぼくの夏休み」的なムードは、フィクションの存在です。今現在も、年末年始だからといって地元から出ることはないので、暇です。皆、すごく、帰省する……。
大晦日から元旦は、昔からワクワクする行事でした。三兄弟なので(兄・私・弟)、大晦日は朝からゲームをするのが通例でした。「1日1時間」ルールはこの日を限って撤廃され、全員でエアライダーやポケモンスタジアムやマリオパーティをしたり、弟の「キングダムハーツRTA」を見守ったりしました。15時頃になると、365日空いているスーパーにノロノロ連れ立って歩き、3人で1500円分、お菓子やジュースを好きなように買うのです。私は夜起きているのが苦手な子供だったので、コーヒー牛乳を買い、夜に備えました。
いたりいなかったりする父親と、いつもいてくれる母親と兄弟で、夜には鍋をつつきます。大概肉団子と鴨肉が入っていて、〆に蕎麦です。一年間の家族の思い出ランキングを発表し、まぁなんだかんだ今年も皆大きくなったねぇなんて言われます。惰性で紅白、ゆく年くる年。アイスを食べようと思って買っていても、大体もうお腹がいっぱいで食べられず、22時頃からは眠くて眠くて仕方ありません。でも絶対に起きるぞ! という意思を持ち、本を読んで24時を待ちます。24時になった瞬間、寝室で倒れます。そこまで頑張って起きる意味など一ミリもないのに。字面にすると、ものすごく普通で、ささやかな年越しですね。元旦は、近所の初詣に行った後、父親から2000円もらってBOOKOFFでどか買いするというのが慣わしでしたが、BOOK OFF、潰れました。悲しい。
今はどうでしょうね。大人になってからも、実家に行って親が買ってくれたおせちを食べて、近所の神社にノロノロ歩いて行きます。年中行事、気合が入らないのですが、なんとなく回収しなくてはならないイヤーリーミッションのような感じで、ポツポツこなしてはおります。あっ初売り! 初売り愛好家です! 地元の伊勢丹に絶対絶対行きます。大好きです、初売り!! なんらかニットを買う、というのが私の信念の行事の一つかもしれません。それからウィスキーをガバガバに飲みます。新年は酔っ払ってもいいのだ、ということになっています。いつも酔っ払っている気もするけど。
フランスパンにクリームチーズといくら、おしゃれで美味しそうで最高で、新年っていうよりNEW YEARって感じで良きですね。私は数の子が好きで、ちみちみプチプチ楽しんで食べています。ハッピー。あと新年にかこつけて上生菓子を食べたくて、高いなぁと思いながら毎年買って食べています。
私にとって年中行事は、結構自分の家、それも子供時代の記憶で再生されるものですね。学校が全くもって楽しくなかったので、家にいられる年末年始は特に好きでした。今でも勿論、仕事が休みなので好きです笑
さて、次回は2026年のさぶろうさんにお会いできますね。目標をお尋ねしたいと思いましたが、もう日記に書いてくださっていたので。
懐古厨のように過去のことばかりで申し訳ないのですが、さぶろうさんって小中学生のとき、どんな子供でどんなものがお好きでしたか? 私は結構、廊下に立っていました笑 多分さぶろうさんは立ってないんじゃないかな。もしあまり筆が乗らなければ、「今手元にある1000万円を必ず24時間以内に消費せよ(旅行の入金はOKとするが、投資や貯蓄、保険などはNGとする)」を聞いてみたいです。畳む
Subro
2025/12/14 00:42
沢村さんは作品を読むにあたって、昔と今との倫理観の違いが影響されることはないんですね。昔から倫理感覚の方向性が定まっており、そして今は熟成の段階にあるのでしょうか。
ちなみに、村上春樹のルポ本は以前勧められて読んだものの、倫理感覚が合わなすぎて2冊目に行くことはありませんでした。
というか、そう、それなんです。それぞれ色々物思いに耽るし、大切な価値観はあるのだけれど、全くカテゴリが違う感じ。これが沢村さんと私なのです。これこれ〜〜ってなりました。
さて、少女漫画的テンプレートを用いることは現実の写し鏡ではなく、抽象の具現化という話は面白いですね。
創作物というのは、読み手が受け取れなければ、思考の伝達物となり得ません。もちろん、読み手を期待しない自己発散を目的とした創作物もあっても良いですが、人の共感を得たい/創作物で他者から価値を認められたい(金にしたい)場合は、他人が受け止められるように作らなければなりません。
相手が受け取るための包装としてあらゆるテンプレートは存在するのかもしれません。人が物事を理解するための方法のひとつとして、理解の負担を下げる方向性が考えられます。テンプレート・焼き回しによって構造理解を省略させることで、他の事象に受け手の理解の負担を回すことができるわけです。全部が意外性ばかり創作は、理解するのが大変な気がします。キャラクターAとBが恋仲でありカップルであることを伝えたい創作なら、テンプレートを使った方が読者の負荷なく思想を伝えられる気がします。
さて、大学に戻れたら何を学んで過ごすのか、という話題をいただきました。
私は大学時代、政治経済学部 国際政治経済学科でした。とはいえ、受験時、他大は全部商学部・経営学部系を受けていました。マーケティングに興味があったのです。
第一志望の大学で文系学部を4学部くらい受験し、俗物な私は最高偏差値の学部に入ることにしました。ただ、やっぱりマーケティングへの興味はあったので、サークルは広告研究会で、グラフィック広告を作っていました。
結論、文系のままなら法学部が気になります。ただ、もし高校1年生くらいに戻れるなら理系になりたいです。
わたしはかなり規範を好むタイプです。ルールに従うのが好きというよりも、仕組みが好きなのです。上手く回る仕組みを生み出した上で、その仕組みに従うことや、変化に応じて仕組みを変化させることを好みます。
現実において人が起こす事象の種類は加速的に拡大していっています。しかし、法律は解釈によってその現実を網羅する必要があるじゃないですか、きっと。だから法の解釈とか、判例とか、網羅性とか、現代にあるべき法律(仕組み)を考える講義はとても面白そうです。
しかし、30になったからこそ思うのですが、基本的にやりたいことに年齢は関係ないと思っています。10代にやっていようが、30代にやっていようが、全部「死ぬまで」に収まることで、些事なわけです。もちろん、仕事にして金を稼ぐとなったら早めに始めることに意義があるかもしれませんが。法律を齧りたいなら、今からでも六法全書でも眺めろよと言う話ですし。
なお、政治経済は大学の時に触れなければ絶対に巡り会わなかった学問なので、政治経済を学べてよかったなと思うことは多々あります。人が選挙に行く理由は学問上説明がつきづらいらしいですよ。面白いですね。
さて、全部「死ぬまで」にやればいい、という話ではあるのですが、そういう意味では理系に行けばよかったと思うことは多いです。理系科目は独学だと厳しいとひしひしと感じます。統計検定2級に落ちたことがあるのですが、リベンジしたいと思うものの、根気が要りすぎて腰が重い。知らない文字がたくさん出てくる数学って独学だとどうにもならない。
理系(解析学系)の難しい本をちらっと眺めたことがあるのですが、「はじめに」の1ページすら意味不明でした。今ここから、独学でこの本が読めるようになるのはちょっと道のりが見えないなという感じがします。これって「死ぬまで」にどうにかできなさそうです。理系に行くことで、こういった本も統計も理解できていたならなあと思うことはあります。
ただ、どの学部に行っても、結局私は広告研究会を選ぶ気がします。我が大学における広告研究会はマジでガチの広告サークルで、次年度活動の資料をWord100ページ書かされて先輩のレビューを受けてボコボコにされるとかいう、社会人の真似事活動があるサークルでした。そこで嫌と言うほど仕事をしました。嫌な思い出も多いわりに、このサークルから続いている人付き合いはほぼゼロ。当時ヲタクからも離れていたし、完全に苦い部類かつ私の人生にとって異種な思い出なのですが、ここでの活動って私の人生における思想や思考の元のひとつなわけで、切り離しがたい。
なので、活動範囲的に沢村さんに出会うことはなかっただろうなあと思ったりもします。4年次に放送されていたユーリon ICEでようやくヲタク復帰したのですが、私が4年次だったら沢村さんに大学で会うことってないですからね。だからやっぱり、このインターネットで狛日を通じて出会って、今狛日じゃないところでも語り合えて、それがちょうど良い気もします。
私が得たいコミュニティは、インターネット空間で趣味を通じて出会うのが最適な気がします。というか同門の人間、怖い。ド偏見でものを語りますが、サウナだか旅行だかを趣味にして、仕事に勤しみ、昇進を喜び、結婚相手を探し、家庭を持ち…というルートを辿る人間ばかりなんじゃないですかね。話せることがなさすぎる。ちなみに本日はゼミ飲みらしいです。もちろん欠席。独身貴族実家暮らしを意思を持って貫く人間ですが、やっぱり、人生のルート選択が異なる人間が怖いままで、とても情けないものです。
さて。もうすぐ年末年始ですね。我が家はおせちを買わず、デパ地下で各々好きな食べ物をなんでも買ってきて、3日かけて食べるという方式をとっています。なので、正月の私はちょっと良いところのフランスパンを食べていることが多いです。クリームチーズを乗せたフランスパンをトースターで焼き、そこにいくらをかけると最高の気持ちになれます。沢村さんのおうちには年内行事がありましたか。もちろん、プライベートなことなので答えたくなければ答えなくても大丈夫です。その場合は、2025年ベストバイを教えてください。
畳む
ちなみに、村上春樹のルポ本は以前勧められて読んだものの、倫理感覚が合わなすぎて2冊目に行くことはありませんでした。
というか、そう、それなんです。それぞれ色々物思いに耽るし、大切な価値観はあるのだけれど、全くカテゴリが違う感じ。これが沢村さんと私なのです。これこれ〜〜ってなりました。
さて、少女漫画的テンプレートを用いることは現実の写し鏡ではなく、抽象の具現化という話は面白いですね。
創作物というのは、読み手が受け取れなければ、思考の伝達物となり得ません。もちろん、読み手を期待しない自己発散を目的とした創作物もあっても良いですが、人の共感を得たい/創作物で他者から価値を認められたい(金にしたい)場合は、他人が受け止められるように作らなければなりません。
相手が受け取るための包装としてあらゆるテンプレートは存在するのかもしれません。人が物事を理解するための方法のひとつとして、理解の負担を下げる方向性が考えられます。テンプレート・焼き回しによって構造理解を省略させることで、他の事象に受け手の理解の負担を回すことができるわけです。全部が意外性ばかり創作は、理解するのが大変な気がします。キャラクターAとBが恋仲でありカップルであることを伝えたい創作なら、テンプレートを使った方が読者の負荷なく思想を伝えられる気がします。
さて、大学に戻れたら何を学んで過ごすのか、という話題をいただきました。
私は大学時代、政治経済学部 国際政治経済学科でした。とはいえ、受験時、他大は全部商学部・経営学部系を受けていました。マーケティングに興味があったのです。
第一志望の大学で文系学部を4学部くらい受験し、俗物な私は最高偏差値の学部に入ることにしました。ただ、やっぱりマーケティングへの興味はあったので、サークルは広告研究会で、グラフィック広告を作っていました。
結論、文系のままなら法学部が気になります。ただ、もし高校1年生くらいに戻れるなら理系になりたいです。
わたしはかなり規範を好むタイプです。ルールに従うのが好きというよりも、仕組みが好きなのです。上手く回る仕組みを生み出した上で、その仕組みに従うことや、変化に応じて仕組みを変化させることを好みます。
現実において人が起こす事象の種類は加速的に拡大していっています。しかし、法律は解釈によってその現実を網羅する必要があるじゃないですか、きっと。だから法の解釈とか、判例とか、網羅性とか、現代にあるべき法律(仕組み)を考える講義はとても面白そうです。
しかし、30になったからこそ思うのですが、基本的にやりたいことに年齢は関係ないと思っています。10代にやっていようが、30代にやっていようが、全部「死ぬまで」に収まることで、些事なわけです。もちろん、仕事にして金を稼ぐとなったら早めに始めることに意義があるかもしれませんが。法律を齧りたいなら、今からでも六法全書でも眺めろよと言う話ですし。
なお、政治経済は大学の時に触れなければ絶対に巡り会わなかった学問なので、政治経済を学べてよかったなと思うことは多々あります。人が選挙に行く理由は学問上説明がつきづらいらしいですよ。面白いですね。
さて、全部「死ぬまで」にやればいい、という話ではあるのですが、そういう意味では理系に行けばよかったと思うことは多いです。理系科目は独学だと厳しいとひしひしと感じます。統計検定2級に落ちたことがあるのですが、リベンジしたいと思うものの、根気が要りすぎて腰が重い。知らない文字がたくさん出てくる数学って独学だとどうにもならない。
理系(解析学系)の難しい本をちらっと眺めたことがあるのですが、「はじめに」の1ページすら意味不明でした。今ここから、独学でこの本が読めるようになるのはちょっと道のりが見えないなという感じがします。これって「死ぬまで」にどうにかできなさそうです。理系に行くことで、こういった本も統計も理解できていたならなあと思うことはあります。
ただ、どの学部に行っても、結局私は広告研究会を選ぶ気がします。我が大学における広告研究会はマジでガチの広告サークルで、次年度活動の資料をWord100ページ書かされて先輩のレビューを受けてボコボコにされるとかいう、社会人の真似事活動があるサークルでした。そこで嫌と言うほど仕事をしました。嫌な思い出も多いわりに、このサークルから続いている人付き合いはほぼゼロ。当時ヲタクからも離れていたし、完全に苦い部類かつ私の人生にとって異種な思い出なのですが、ここでの活動って私の人生における思想や思考の元のひとつなわけで、切り離しがたい。
なので、活動範囲的に沢村さんに出会うことはなかっただろうなあと思ったりもします。4年次に放送されていたユーリon ICEでようやくヲタク復帰したのですが、私が4年次だったら沢村さんに大学で会うことってないですからね。だからやっぱり、このインターネットで狛日を通じて出会って、今狛日じゃないところでも語り合えて、それがちょうど良い気もします。
私が得たいコミュニティは、インターネット空間で趣味を通じて出会うのが最適な気がします。というか同門の人間、怖い。ド偏見でものを語りますが、サウナだか旅行だかを趣味にして、仕事に勤しみ、昇進を喜び、結婚相手を探し、家庭を持ち…というルートを辿る人間ばかりなんじゃないですかね。話せることがなさすぎる。ちなみに本日はゼミ飲みらしいです。もちろん欠席。独身貴族実家暮らしを意思を持って貫く人間ですが、やっぱり、人生のルート選択が異なる人間が怖いままで、とても情けないものです。
さて。もうすぐ年末年始ですね。我が家はおせちを買わず、デパ地下で各々好きな食べ物をなんでも買ってきて、3日かけて食べるという方式をとっています。なので、正月の私はちょっと良いところのフランスパンを食べていることが多いです。クリームチーズを乗せたフランスパンをトースターで焼き、そこにいくらをかけると最高の気持ちになれます。沢村さんのおうちには年内行事がありましたか。もちろん、プライベートなことなので答えたくなければ答えなくても大丈夫です。その場合は、2025年ベストバイを教えてください。
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沢村
2025/11/29 11:31
いつもごちゃごちゃとした日記を書き散らかしている私ですが、やはり交換日記となると身が引き締まる思いです。そこに落ちていたボールを拾って壁にぶん投げ、跳ね返ってきたボールに衝突しその痛みで悶えてばかりの私なので、さぶろうさんに投げてもらったボールをキャッチし、その胸元へ投げ返すことが果たしてできるものなのか、緊張ですね。
というわけで、お尋ねいただいた「自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなってしまったこと」について考えるなどしていました。考え、考え、考えてみたのですが、いまいち思い当たりませんでした。なぜでしょう? 例えば子供が産まれて、子供が酷い目に遭う話がダメになったという話はしばしば聞くのですが、正直あまりその辺りも気にならないのです。何なら可哀想な子供をキャラクターに据えた創作までしています。うーん?
となりのトトロとか、よく典型例にあげられますよね。サツキちゃんは今でいう「ヤングケアラー」です。大人になって見返すと、サツキの辛さが気になって、なかなか没入できない人も多いのだとか。確かにサツキちゃんは今なら福祉の射程範囲でしょうが、「まぁ、当時はこんなものだったのでしょう」と思いますし、それを凌駕する夢いっぱいの、しかし奇妙な物語性や、映像の美しさがあり、「子供はきちんと社会で守るべきだ」いう私の思想を忘却させてくれます。要は私の現在の倫理観は、作品に敗北しているのです。まだ読めていないのですが、ペケみっつを今読み返してみても、倫理という側面では「おもしろ!」で終わってしまう気がしています。面白さに負ける気がしている。
作品を読んだ時に感じる心の波立ちは、そういったものをどれだけ大事にしていて、日頃からよく考えているか、ということが現れるポイントだと思います。きっとさぶろうさんは「倫理観」を、普段から大事にしておられるのでしょう。社会の声と自分の心を比べる限り、私の倫理観は(あくまで作品を見るときの観点としては、と言い訳をしておきます)相対的に弱い感がありますね。むむむ。しかし私も、「年と共に楽しめなくなった」ものはいくつかあります。逆に「楽しめる」ようになったものも。技術的なものやロジック的なもの(主に、そこに「必然性」を感じさせてくれるかーー「そういう」ものだと納得させてくれるかどうか)であったり、自分の知識や経験が増えてやっと、「対象年齢」になれたようなものであったり。過去楽しかったものに触れて、同じように楽しめなくなることはもの寂しさがありますが、それは自然なことで、きっとある程度仕方のないものなのでしょう。一方で、「今の私」「これからの私」が楽しめるであろうものも、きっと沢山あります。逆に永久に感性が変わらないというのも、自分の停滞の証左でしかなく、それはそれで辛いものですから、私としてはポジティブに変化を受け入れたいなと思う次第です。
ちなみに私は「恋人や配偶者がいるにも関わらず『必要なこと』みたいに他と性行為をして、何ならちょっと『エモい』みたいな感じになってる表現」とか、「妊娠や出産や授乳を『エロ』コンテンツみたいに取り扱っている」「なんとなく成り行きで寂しさを紛らわすために性行為をする」みたいなものは苦手で、ささくれ立つとかそういうレベルでもないくらいに苛立ちます。今回これを書くにあたってその辺りについても思いを巡らせてみたのですが、それは別に価値変容ではなく、昔からでした。チャンチャン。でも誰彼構わずセックスしまくる村上春樹の登場人物なんかは、いっそ爽やかで気にならず、結構好きです。春樹の才能に敗北しています。(苦手な方も多いと聞きますが、ルポ本とかすっごく面白いですよ。よかったらこれを機に)
さて、「恋」についての話題が出て、面白いなと思いました。「人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか」という問いに私が答えるとするならば、「NO」かな、というところです。
私は、自分がヘテロロマンティック、デミセクシュアルであると自認しています。(最近性欲薄くね?と思い始めました、他の人の話や世のコンテンツを見るに、ですが)(ピルのせいか?)あまり詳しくないし、何か診断を受けたわけでもないのでご容赦ください。恋愛経験は多くないのですが、それなりに人を好きになったことはあります。少女漫画のテンプレート……あれはあれでやはり一つの「夢」であり「お約束」であって、実際の恋愛とは違うんじゃないかな? と思うのですが、どうなんでしょう。
うーん、でも私の恋愛に対する考えや、恋愛しているという自認の時に心にある感情が、他の人の「それ」と並べて眺めたときに同質であるとは限らなくて……いや、確実に違うはずですよね。じゃあ別に夢でもないのかな。ある、人もいる。スペクトラム状のものなのかと。
私自身は「恋」は尊く、一方で醜い感情だと考えています。そのアンバランスさと曖昧さが、人を恋の虜にして、多くの物語が作られているのだろうと思います。人間は抽象化ができる珍しい動物ですが、抽象を抽象のままにしておくと不安定になるものですから、具体的な「物語」に乗せて抽象を理解したがるのかなと。少女漫画のテンプレートはその「一例」で、「恋」の理解に役立つ一種の筋書きで、「わかりやすく受け入れやすい」型、なのでしょう。そのテンプレートが必要な時代や、時期、というのは存在するので、良いのではないかと思います。それがなければ、思春期に多くの人がかち合う感情に相応しい言葉がつけられなくて、どう整理したらいいのかわからなくて、苦しくなる人もきっといる。が、テンプレはテンプレであって、「恋をする人」の現実そのものではなかろう、というのが私の理解です。要はファンタジーです。「家族」というワードに対応するサザエさんという「概念」みたいなものだと解しています。理解に必要な、理想を交えた一般論。こと少女漫画という分野においては、自分の感情を否定しないために、あるいは浄化するための装置でもあるのではないでしょうか。
が、昔のダイレクトな感情は忘れてしまいましたが、今は私自身も「恋情」や「性欲」を排除して「理性」で人格を見て、その「理性」的側面で人を愛し愛されたいと望んでいますし、そういう物語の方が何となく、納得感があります。創作においても、恋という本能的な感情に流されすぎない「理性的な惹かれ」「理性的な決断」そういうことが表現できたらいいなと考え、実践を目指しています。
でもそれは、私があまり性欲を人に抱かないからなのでしょうか? いやそもそも、「理性」で判断しているように思っていても、自身にその感情が存在する以上、その裏には結局「恋情」や「性欲」があるのでしょうか? 恋は本当に、感情的なものなのでしょうか? (例えば、「ハイスペックな人を好きになる」という事象の裏には、よい遺伝子を求める本能的な欲求と、それが自分にとってメリットが大きいというかなりの理性的な判断があるように思います)
うーん? わからなくなってきました。風呂敷を広げるだけ広げて、片付けができない。あぁそうです、私は片付けが苦手なんですよね。ううん、うーん、とっ散らかり。本能が先か、感情が先か、理性が先か、全てないまぜ? 人による?
このまま行くとデカルトに到達してしまう気がするので、一旦やめておきましょう。ちょっと関係ないのですが、さぶろうさんに聞いてみたいことがあったので、聞いてみて良いですか? 最近『文学部に行っていたら』『そうでなくてももっと勉強しておけば』『せめて文芸サークルに入っていれば』『本を、もっと……』などと思うシーンがとても多いです。年の瀬にありがちな年相応の後悔だと思うのですが、さぶろうさんはそんなことありますか?
もし大学に戻れたら、何を学んでどう過ごしたいですか? そしてそこで私に出会ったら、友達になってくれますか?畳む
というわけで、お尋ねいただいた「自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなってしまったこと」について考えるなどしていました。考え、考え、考えてみたのですが、いまいち思い当たりませんでした。なぜでしょう? 例えば子供が産まれて、子供が酷い目に遭う話がダメになったという話はしばしば聞くのですが、正直あまりその辺りも気にならないのです。何なら可哀想な子供をキャラクターに据えた創作までしています。うーん?
となりのトトロとか、よく典型例にあげられますよね。サツキちゃんは今でいう「ヤングケアラー」です。大人になって見返すと、サツキの辛さが気になって、なかなか没入できない人も多いのだとか。確かにサツキちゃんは今なら福祉の射程範囲でしょうが、「まぁ、当時はこんなものだったのでしょう」と思いますし、それを凌駕する夢いっぱいの、しかし奇妙な物語性や、映像の美しさがあり、「子供はきちんと社会で守るべきだ」いう私の思想を忘却させてくれます。要は私の現在の倫理観は、作品に敗北しているのです。まだ読めていないのですが、ペケみっつを今読み返してみても、倫理という側面では「おもしろ!」で終わってしまう気がしています。面白さに負ける気がしている。
作品を読んだ時に感じる心の波立ちは、そういったものをどれだけ大事にしていて、日頃からよく考えているか、ということが現れるポイントだと思います。きっとさぶろうさんは「倫理観」を、普段から大事にしておられるのでしょう。社会の声と自分の心を比べる限り、私の倫理観は(あくまで作品を見るときの観点としては、と言い訳をしておきます)相対的に弱い感がありますね。むむむ。しかし私も、「年と共に楽しめなくなった」ものはいくつかあります。逆に「楽しめる」ようになったものも。技術的なものやロジック的なもの(主に、そこに「必然性」を感じさせてくれるかーー「そういう」ものだと納得させてくれるかどうか)であったり、自分の知識や経験が増えてやっと、「対象年齢」になれたようなものであったり。過去楽しかったものに触れて、同じように楽しめなくなることはもの寂しさがありますが、それは自然なことで、きっとある程度仕方のないものなのでしょう。一方で、「今の私」「これからの私」が楽しめるであろうものも、きっと沢山あります。逆に永久に感性が変わらないというのも、自分の停滞の証左でしかなく、それはそれで辛いものですから、私としてはポジティブに変化を受け入れたいなと思う次第です。
ちなみに私は「恋人や配偶者がいるにも関わらず『必要なこと』みたいに他と性行為をして、何ならちょっと『エモい』みたいな感じになってる表現」とか、「妊娠や出産や授乳を『エロ』コンテンツみたいに取り扱っている」「なんとなく成り行きで寂しさを紛らわすために性行為をする」みたいなものは苦手で、ささくれ立つとかそういうレベルでもないくらいに苛立ちます。今回これを書くにあたってその辺りについても思いを巡らせてみたのですが、それは別に価値変容ではなく、昔からでした。チャンチャン。でも誰彼構わずセックスしまくる村上春樹の登場人物なんかは、いっそ爽やかで気にならず、結構好きです。春樹の才能に敗北しています。(苦手な方も多いと聞きますが、ルポ本とかすっごく面白いですよ。よかったらこれを機に)
さて、「恋」についての話題が出て、面白いなと思いました。「人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか」という問いに私が答えるとするならば、「NO」かな、というところです。
私は、自分がヘテロロマンティック、デミセクシュアルであると自認しています。(最近性欲薄くね?と思い始めました、他の人の話や世のコンテンツを見るに、ですが)(ピルのせいか?)あまり詳しくないし、何か診断を受けたわけでもないのでご容赦ください。恋愛経験は多くないのですが、それなりに人を好きになったことはあります。少女漫画のテンプレート……あれはあれでやはり一つの「夢」であり「お約束」であって、実際の恋愛とは違うんじゃないかな? と思うのですが、どうなんでしょう。
うーん、でも私の恋愛に対する考えや、恋愛しているという自認の時に心にある感情が、他の人の「それ」と並べて眺めたときに同質であるとは限らなくて……いや、確実に違うはずですよね。じゃあ別に夢でもないのかな。ある、人もいる。スペクトラム状のものなのかと。
私自身は「恋」は尊く、一方で醜い感情だと考えています。そのアンバランスさと曖昧さが、人を恋の虜にして、多くの物語が作られているのだろうと思います。人間は抽象化ができる珍しい動物ですが、抽象を抽象のままにしておくと不安定になるものですから、具体的な「物語」に乗せて抽象を理解したがるのかなと。少女漫画のテンプレートはその「一例」で、「恋」の理解に役立つ一種の筋書きで、「わかりやすく受け入れやすい」型、なのでしょう。そのテンプレートが必要な時代や、時期、というのは存在するので、良いのではないかと思います。それがなければ、思春期に多くの人がかち合う感情に相応しい言葉がつけられなくて、どう整理したらいいのかわからなくて、苦しくなる人もきっといる。が、テンプレはテンプレであって、「恋をする人」の現実そのものではなかろう、というのが私の理解です。要はファンタジーです。「家族」というワードに対応するサザエさんという「概念」みたいなものだと解しています。理解に必要な、理想を交えた一般論。こと少女漫画という分野においては、自分の感情を否定しないために、あるいは浄化するための装置でもあるのではないでしょうか。
が、昔のダイレクトな感情は忘れてしまいましたが、今は私自身も「恋情」や「性欲」を排除して「理性」で人格を見て、その「理性」的側面で人を愛し愛されたいと望んでいますし、そういう物語の方が何となく、納得感があります。創作においても、恋という本能的な感情に流されすぎない「理性的な惹かれ」「理性的な決断」そういうことが表現できたらいいなと考え、実践を目指しています。
でもそれは、私があまり性欲を人に抱かないからなのでしょうか? いやそもそも、「理性」で判断しているように思っていても、自身にその感情が存在する以上、その裏には結局「恋情」や「性欲」があるのでしょうか? 恋は本当に、感情的なものなのでしょうか? (例えば、「ハイスペックな人を好きになる」という事象の裏には、よい遺伝子を求める本能的な欲求と、それが自分にとってメリットが大きいというかなりの理性的な判断があるように思います)
うーん? わからなくなってきました。風呂敷を広げるだけ広げて、片付けができない。あぁそうです、私は片付けが苦手なんですよね。ううん、うーん、とっ散らかり。本能が先か、感情が先か、理性が先か、全てないまぜ? 人による?
このまま行くとデカルトに到達してしまう気がするので、一旦やめておきましょう。ちょっと関係ないのですが、さぶろうさんに聞いてみたいことがあったので、聞いてみて良いですか? 最近『文学部に行っていたら』『そうでなくてももっと勉強しておけば』『せめて文芸サークルに入っていれば』『本を、もっと……』などと思うシーンがとても多いです。年の瀬にありがちな年相応の後悔だと思うのですが、さぶろうさんはそんなことありますか?
もし大学に戻れたら、何を学んでどう過ごしたいですか? そしてそこで私に出会ったら、友達になってくれますか?畳む
Subro
2025/11/16 16:00
沢村さんの話を受けて、「人に興味がない」ってなんだろう? ということを語ろうと思った。のだけれど、全く意見がまとまらないので、今回は違う話をしようと思う。一気に書き上げたので、まとなりのなさはご容赦いただきたい。
今回は、変わってしまった私の感性と古の少女漫画の話をしましょう。
Blueskyで先日「僕と彼女の×××」(以下、×××(読み:ペケみっつ))という少女漫画の話をしたところ、沢村さんも含め何人かが反応してくださった。
「×××」という作品がずっと前から好きだった。姉の本棚からこっそり抜き取った漫画の中でも、数冊しか覚えていないタイトルのひとつだ。
姉にバレないように毎日少しずつ読み進めていたが、続きが読みたくて仕方なかったことを覚えている。
しかし、現代になって読むと、自分の中の感情のささくれを無視できずに読めない。自分の変化と度量のなさが悲しいと言う話である。
「×××」は森永あい先生が2001年〜2013年に連載していたラブコメ漫画である。
ざっくりとあらすじを言う。以下、ネタバレ注意である。
〜〜〜
主人公のあきらは美男子だが、軟弱な性格でいつも弱気な男である。
そんな彼は、下品かつ暴力的…だけれども絶世の美少女である菜々子に密かに恋心を抱いていた。
あきらと菜々子は怪しげな実験に巻き込まれた結果、なんと中身が入れ替わってしまう!
あきらの美青年といえる見た目と菜々子の粗暴な性格は見事にマッチし、菜々子も入れ替わった自身の身体を気に入ってしまう。
そして、元々の菜々子の女友達(椎名)を自分の彼女にしてしまう暴挙に出る。
菜々子に対して恋心を抱いていたあきらは、内心複雑で…
そんな折、元のあきらの親友である千本木が、菜々子(in あきら)に告白してきたのだ!どうなる、入れ替わり生活!どうなる、あきらの身体!
〜〜〜
上記あらすじでは、あえて「美男子だが軟弱」「暴力的だが美女」という言葉を使ってみた。
やはり昔の少女漫画らしく、令和の倫理観ではなかなかみない価値観が盛りだくさんなのである。
「×××」は、あらすじだけでもわかる通り、旧来のジェンダー観がものすごく強い。
男性は男らしい方がかっこいい、女性は女らしいほうが可愛い。なお、男は浮気しても許される。
ルッキズムも根強い。かっこいい/かわいい人間とブサイクな人間の描き分けが極端であり、美男・美女は何をしても許されるし恵まれている。一方、ブサイクな人間が恋する様はギャグとして扱われている。
これは「×××」だけでなく森永あい先生の作品に共通していることで、別作の「山田太郎ものがたり」も同様の価値観で描かれている。
経済力がない男は魅力がないけれども、美貌には抗えないこともある…みたいな価値観が面白さの根底にある作品である。
「山田太郎ものがたり」では、両親の経済的DVがギャグ描写として描かれるシーンもある。主人公山田太郎は顔が美しい。
しかし、多人数兄弟で非常に貧乏であり、太郎がバイトで身を粉にしながら、兄弟と共に爪に火を灯して生活している。
そんな貧乏な暮らしの中、母親が意味不明なものに大金を注ぎ込んでしまう場面が頻発する。
なお、これにより、太郎が得た金がリセットされる。山田太郎が貧乏というキャラクターの一貫性を、母親の金遣いの荒さによって保っている仕組みなわけだ。
両作品にとても批判的に見えると思うが、まったく批判したいわけではない。
2000年代〜2010年前半の作品は、この倫理観でしっかり大衆を楽しませることができた。
そもそも、2020年後半に生きる我々をターゲットにして描かれたものではない。私の今の倫理観で見たら、心が毛羽立つ部分があると言う話である。
「×××」も「山田太郎ものがたり」も今読んでもとても面白い作品だ。ただ、私の中でどうしても理性が引っかかってしまう。
自分の中の倫理観を戻したいわけでもないのだが、純粋に楽しめないことが寂しいと感じる。
物語を楽しむことは自分の心の中の話であり、何を考えていてもいいはずだ。理性と感性をバトルさせなくたって、心のままに楽しんでいいはずなのだ。
わざわざ「この親経済的DVだろ…」と心の中でアラートを上げなくていい。しかしどうしても、感性に食い込むほどに、私の中の倫理は変わってしまった。
さて、私は別の場所で、現代のBL二次創作のテンプレート的表現の源流は2000〜2010年代前半の少女漫画から来ていると説いたこと がある。
ざっくり言うと、2000年代〜2010年代前半の少女漫画に影響を受けた女性がBL二次創作を描いているため、原作のキャラクターの性格に関わらず、以下のような少女漫画表現が攻め(ヒーロー)と受け(ヒロイン)に適用されるという話である。
・笑顔のヒロインにドキッ…!///とするヒーロー
・ヒロインに対して「かわいすぎ…っ!///」と口を押さえるヒーロー
・ヒロインにゾッコンのヒーローに対してモブの「眼科いけ」
・ヒーローがかっこいいことをした時にすぐ照れるヒロイン(カァァ…///)
・お互いがお互いの顔を好いており、顔に免じがち
・キスやらセックスがやたら上手くて抗えない
照れすぎだろう。なお、「///」とは、古のインターネット小説における照れを表す表現である。
人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか。私がデミセクシャル(※)なので知らないだけなのだろうか。他人に恋心を抱く人がいたら教えてください。
※アロマンスの一種で、あんまり恋愛感情を抱かない恋愛指向のこと
上記の言い種から察せられる通り、今の私はこのような少女漫画の影響を受けたテンプレート表現をどうも楽しめない。
単純にデミセクシャルの自認が深く影響しており、人間の関係性が育っていく様を感情由来ではなく理性由来で見てしまうのである。
人に魅力を感じるには理由が必要で、それが恋情で片付けられると話が破綻しているように感じてしまう。(追記参照)
もちろん物語をどう楽しもうが個人の自由だ。そして、物語の価値観が作者の価値観というわけではない。
また、違った価値観であってもnot for meであるだけで、存在していいのだ。口や文面で、私はそう言う。
なのに、どこか私の中で世の中の「浄化」ー自分の価値観への変更ーを自分勝手に求めてしまっている。
その浄化を求める自分の度量の狭さが、結構苦しい。心から割り切れるようになる日がくるのだろうか。
私はこの自認にひっついて育った倫理観を気に入っている。しかし、どこか心が狭まったような気がしてならないのだ。
森永あい作品に登場するキャラクターは欠点が多い。面食いばかりだし、性欲にまっすぐだし、他人を侮辱する。
一方、現代のキャラクターは、かなり倫理観がしっかりしていると思う。ジャンプのラブコメからも、なんの特徴もない主人公が激モテする話はなくなっている。
優しく家庭的で惚れる要素のある人間描写をしっかり描いた上で、モテている話ばかりになっている。(「ひまてん」「アオのハコ」など)
森永あい作品のようなキャラクターがいていい、とも正直理性では言い難い。
ただ、こういったキャラクターはもう生まれないだろうと思うと、このような描写をぎりぎり楽しめる世代でよかったとも思うのだ。
色々と書いたものの、結局自分の倫理観に合った作品やキャラクターが好きになる。私の中の理性が私の中の感情と手を握ってくれる漫画を快適に楽しんでいる。
最近のおすすめ漫画は「やちるさんはほめるとのびる」である。八尺の血を持つ背の大きな女性と、巨女フェチの男性とのボーイミーツガール作品である。
両思いだが付き合っていない男女の性的同意(しかも、女→男の加害)、LGBTの透明化などの人間が生きていたら生じ得るかもしれない話を、そのキャラクターのまま描いている。
その人間性のリアルさが面白い。し、なによりこのような題材を扱っていながら、やちるさんがしっかりとえっちに描かれているのがすごい。
キャラクターの人間性をあまり心配させず、しかしながらこんなえっちなラブコメって作れるのか〜と感心してしまった。
https://comic-days.com/episode/255091296...
沢村さんは何か、ここ最近で自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなったものはありますか。そしてぜひ、語りたいことがあれば教えてください。
ーーー
追記
恋愛感情や性欲は、理性と反対にあるように感じられることから、スキャンダラスで下品なものと扱われる文脈も多々ある。
なので、アセクシャル亜種がこのような立場でいるだけで、まるでこちらが清潔な正義のように「見え」て、「汚い我々」を批判されたと感じて怒る人がいる。
特に私は声の大きな感想屋であり、自分の好みに合った作品を長文ベタ褒めするので、not for me作品への(無)反応との温度差も怒りに薪をくべているのだと思う。
上記の通り、どこか浄化の思想があるにはあるので、感情で言えば剣を構える勢いではある。
が、理性で言えば好みなぞ争っても仕方ない。別に恋愛感情や性欲は99%の人が抱くことであり、人間の一大コンテンツなのである。
for youがnot for meなだけなのである。そして、恋愛・性愛の強い作品が存在することは素晴らしく、またそれを楽しめることも人生の彩りになっているのである。
畳む
今回は、変わってしまった私の感性と古の少女漫画の話をしましょう。
Blueskyで先日「僕と彼女の×××」(以下、×××(読み:ペケみっつ))という少女漫画の話をしたところ、沢村さんも含め何人かが反応してくださった。
「×××」という作品がずっと前から好きだった。姉の本棚からこっそり抜き取った漫画の中でも、数冊しか覚えていないタイトルのひとつだ。
姉にバレないように毎日少しずつ読み進めていたが、続きが読みたくて仕方なかったことを覚えている。
しかし、現代になって読むと、自分の中の感情のささくれを無視できずに読めない。自分の変化と度量のなさが悲しいと言う話である。
「×××」は森永あい先生が2001年〜2013年に連載していたラブコメ漫画である。
ざっくりとあらすじを言う。以下、ネタバレ注意である。
〜〜〜
主人公のあきらは美男子だが、軟弱な性格でいつも弱気な男である。
そんな彼は、下品かつ暴力的…だけれども絶世の美少女である菜々子に密かに恋心を抱いていた。
あきらと菜々子は怪しげな実験に巻き込まれた結果、なんと中身が入れ替わってしまう!
あきらの美青年といえる見た目と菜々子の粗暴な性格は見事にマッチし、菜々子も入れ替わった自身の身体を気に入ってしまう。
そして、元々の菜々子の女友達(椎名)を自分の彼女にしてしまう暴挙に出る。
菜々子に対して恋心を抱いていたあきらは、内心複雑で…
そんな折、元のあきらの親友である千本木が、菜々子(in あきら)に告白してきたのだ!どうなる、入れ替わり生活!どうなる、あきらの身体!
〜〜〜
上記あらすじでは、あえて「美男子だが軟弱」「暴力的だが美女」という言葉を使ってみた。
やはり昔の少女漫画らしく、令和の倫理観ではなかなかみない価値観が盛りだくさんなのである。
「×××」は、あらすじだけでもわかる通り、旧来のジェンダー観がものすごく強い。
男性は男らしい方がかっこいい、女性は女らしいほうが可愛い。なお、男は浮気しても許される。
ルッキズムも根強い。かっこいい/かわいい人間とブサイクな人間の描き分けが極端であり、美男・美女は何をしても許されるし恵まれている。一方、ブサイクな人間が恋する様はギャグとして扱われている。
これは「×××」だけでなく森永あい先生の作品に共通していることで、別作の「山田太郎ものがたり」も同様の価値観で描かれている。
経済力がない男は魅力がないけれども、美貌には抗えないこともある…みたいな価値観が面白さの根底にある作品である。
「山田太郎ものがたり」では、両親の経済的DVがギャグ描写として描かれるシーンもある。主人公山田太郎は顔が美しい。
しかし、多人数兄弟で非常に貧乏であり、太郎がバイトで身を粉にしながら、兄弟と共に爪に火を灯して生活している。
そんな貧乏な暮らしの中、母親が意味不明なものに大金を注ぎ込んでしまう場面が頻発する。
なお、これにより、太郎が得た金がリセットされる。山田太郎が貧乏というキャラクターの一貫性を、母親の金遣いの荒さによって保っている仕組みなわけだ。
両作品にとても批判的に見えると思うが、まったく批判したいわけではない。
2000年代〜2010年前半の作品は、この倫理観でしっかり大衆を楽しませることができた。
そもそも、2020年後半に生きる我々をターゲットにして描かれたものではない。私の今の倫理観で見たら、心が毛羽立つ部分があると言う話である。
「×××」も「山田太郎ものがたり」も今読んでもとても面白い作品だ。ただ、私の中でどうしても理性が引っかかってしまう。
自分の中の倫理観を戻したいわけでもないのだが、純粋に楽しめないことが寂しいと感じる。
物語を楽しむことは自分の心の中の話であり、何を考えていてもいいはずだ。理性と感性をバトルさせなくたって、心のままに楽しんでいいはずなのだ。
わざわざ「この親経済的DVだろ…」と心の中でアラートを上げなくていい。しかしどうしても、感性に食い込むほどに、私の中の倫理は変わってしまった。
さて、私は別の場所で、現代のBL二次創作のテンプレート的表現の源流は2000〜2010年代前半の少女漫画から来ていると説いたこと がある。
ざっくり言うと、2000年代〜2010年代前半の少女漫画に影響を受けた女性がBL二次創作を描いているため、原作のキャラクターの性格に関わらず、以下のような少女漫画表現が攻め(ヒーロー)と受け(ヒロイン)に適用されるという話である。
・笑顔のヒロインにドキッ…!///とするヒーロー
・ヒロインに対して「かわいすぎ…っ!///」と口を押さえるヒーロー
・ヒロインにゾッコンのヒーローに対してモブの「眼科いけ」
・ヒーローがかっこいいことをした時にすぐ照れるヒロイン(カァァ…///)
・お互いがお互いの顔を好いており、顔に免じがち
・キスやらセックスがやたら上手くて抗えない
照れすぎだろう。なお、「///」とは、古のインターネット小説における照れを表す表現である。
人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか。私がデミセクシャル(※)なので知らないだけなのだろうか。他人に恋心を抱く人がいたら教えてください。
※アロマンスの一種で、あんまり恋愛感情を抱かない恋愛指向のこと
上記の言い種から察せられる通り、今の私はこのような少女漫画の影響を受けたテンプレート表現をどうも楽しめない。
単純にデミセクシャルの自認が深く影響しており、人間の関係性が育っていく様を感情由来ではなく理性由来で見てしまうのである。
人に魅力を感じるには理由が必要で、それが恋情で片付けられると話が破綻しているように感じてしまう。(追記参照)
もちろん物語をどう楽しもうが個人の自由だ。そして、物語の価値観が作者の価値観というわけではない。
また、違った価値観であってもnot for meであるだけで、存在していいのだ。口や文面で、私はそう言う。
なのに、どこか私の中で世の中の「浄化」ー自分の価値観への変更ーを自分勝手に求めてしまっている。
その浄化を求める自分の度量の狭さが、結構苦しい。心から割り切れるようになる日がくるのだろうか。
私はこの自認にひっついて育った倫理観を気に入っている。しかし、どこか心が狭まったような気がしてならないのだ。
森永あい作品に登場するキャラクターは欠点が多い。面食いばかりだし、性欲にまっすぐだし、他人を侮辱する。
一方、現代のキャラクターは、かなり倫理観がしっかりしていると思う。ジャンプのラブコメからも、なんの特徴もない主人公が激モテする話はなくなっている。
優しく家庭的で惚れる要素のある人間描写をしっかり描いた上で、モテている話ばかりになっている。(「ひまてん」「アオのハコ」など)
森永あい作品のようなキャラクターがいていい、とも正直理性では言い難い。
ただ、こういったキャラクターはもう生まれないだろうと思うと、このような描写をぎりぎり楽しめる世代でよかったとも思うのだ。
色々と書いたものの、結局自分の倫理観に合った作品やキャラクターが好きになる。私の中の理性が私の中の感情と手を握ってくれる漫画を快適に楽しんでいる。
最近のおすすめ漫画は「やちるさんはほめるとのびる」である。八尺の血を持つ背の大きな女性と、巨女フェチの男性とのボーイミーツガール作品である。
両思いだが付き合っていない男女の性的同意(しかも、女→男の加害)、LGBTの透明化などの人間が生きていたら生じ得るかもしれない話を、そのキャラクターのまま描いている。
その人間性のリアルさが面白い。し、なによりこのような題材を扱っていながら、やちるさんがしっかりとえっちに描かれているのがすごい。
キャラクターの人間性をあまり心配させず、しかしながらこんなえっちなラブコメって作れるのか〜と感心してしまった。
https://comic-days.com/episode/255091296...
沢村さんは何か、ここ最近で自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなったものはありますか。そしてぜひ、語りたいことがあれば教えてください。
ーーー
追記
恋愛感情や性欲は、理性と反対にあるように感じられることから、スキャンダラスで下品なものと扱われる文脈も多々ある。
なので、アセクシャル亜種がこのような立場でいるだけで、まるでこちらが清潔な正義のように「見え」て、「汚い我々」を批判されたと感じて怒る人がいる。
特に私は声の大きな感想屋であり、自分の好みに合った作品を長文ベタ褒めするので、not for me作品への(無)反応との温度差も怒りに薪をくべているのだと思う。
上記の通り、どこか浄化の思想があるにはあるので、感情で言えば剣を構える勢いではある。
が、理性で言えば好みなぞ争っても仕方ない。別に恋愛感情や性欲は99%の人が抱くことであり、人間の一大コンテンツなのである。
for youがnot for meなだけなのである。そして、恋愛・性愛の強い作品が存在することは素晴らしく、またそれを楽しめることも人生の彩りになっているのである。
畳む
沢村
2025/10/29 21:07
2025年10月
どうも沢村です。この度は交換日記に誘ってもらって、環境を整えていただいて、ありがとうございます! 見てくださいこのうさぎさん。とても可愛いです。声をかけてもらった時、あまりに嬉しくて、その場でステップを踏み、脚をもつれさせました。これは本当の話です。だって、交換日記! しかも大人の! そんな楽しそうなものに声をかけてもらえるって、とても名誉です。互いの言葉で傷つかないであろう確信があり、互いの言葉を楽しめるであろう予感がある、ということだと思うのですよ。非常に稀有なことです。
さぶろうさんのお友達のために軽く自分を紹介します。趣味で字を書いています。普段は働いたり、可愛い娘を吸ったり、イヤイヤ家事をしたり、本を読んだり自転車を漕いだりしています。SDR2の二次創作をきっかけにさぶろうさんに出会い、懐いています。
私は、さぶろうさんの漫画の『語りすぎず伝える』技法と、人間の感情の切り出し方が好きです。重い感情は、重い言葉や性的行為のみを媒介するものではなく、柔らかな動作や何気ない言葉の中に滲むことも多いのだということが、胸にストンと落ちてくるからです。人間の描き様が、至って自然というか。人間の合理を、非合理を、複層的な思考を無視しないというか。でもその洞察は、さぶろうさんが深く深く潜った思索の中で掴んでおられるものな気もしています。よくわからない石をエンエン言いながら掘り進めて何となく何かに当たったらいいな、な私とは違って。
そんなさぶろうさんに、類似点と相違点を整理してもらって、うんうん頷いていました。互いの合理を尊重できる、素敵です。でも本当にそうだと思うんです。それから私はさぶろうさんと、言語を共有できる気がしています。なかなかいません。実のところ、素の思考を素の語彙で話すことは結構怖いものですが、さぶろうさんなら大丈夫だろうと感じています。思いつくまま語って変だ! とか、思想が強い! と言われることがが多い生涯だったので、ついつい表現を丸めたり、ふざけたりしてしまうところがあるのですが、ここではありのまま行かせていただきましょう! という気持ちです。オラオラ!
さて、私はさぶろうさんと違って、フィーリングで勝手なことを言うので、勝手なことを言います。さぶろうさんと私は心理学のビックファイブ理論において、『開放性』が高く、『協調性』はそんなに高くないという共通点があるんじゃないか!? と思っています。ちなみに私は心理学には何一つ専門知識を持っていないので、マジで適当な話です、これは。
この開放性というのは、好奇心や想像力ですね。新たな情報に心を開いているかどうか、というものです。一方の協調性は、協調、と同調、に分けられます。さぶ、うさんは思慮深く想像力があり、優しさは抱いているけれども、同調はあまりしないタイプだとお見受けします。なんでわかってくれないの? 冷たくない? とか言われたこと、ないです?(なかったらすみません)
しかし私は、悪戯な同調は、双方の思想をどちらかに引き寄せ捻じ曲げることでもあると考えています。つまり同調しないことこそが、尊重でもありうるのだというスタンスです。
私は、いい意味の個人主義というか、自分の中の道理や軸があり、それを言語にしてくれる人が好きです。自分の感情や考えを言語にしてくれるということは、いわゆるシンパシー的な共感や優しさではないので、しばしば『自己主張』と受け止められがちです。ただ私は、人間が他者の気持ちを理解することなど不可能だと思っていて、言語で自分の思考を表明してくれることは、『思いやり』だとも思うんですよね。三浦しをん先生もそう言っていました。そしてさぶろうさんは、私の声を聞いてくれる(読んでもくれる)。だから私はさぶろうさんを、とても優しい人だと思っている、というわけです。
さぶろうさんと、中学生の時や高校生の時に出会いたかった。出会っていればもう少し、楽しい思春期だった気がするんです。放課後、謎のろくろ回しに付き合ってもらって、ああでもないこうでもないって、リプトンの紅茶パックを片手に持って歩くとか、したかった。
この日記は、大人のアフタヌーンティーを想定していると言うことですが、私はあるいは思春期にしたかった語りをしてしまうかもしれません。でもまぁそれすら、許してもらえると信じています。
互いの居心地のよい時間になりますように。畳む
どうも沢村です。この度は交換日記に誘ってもらって、環境を整えていただいて、ありがとうございます! 見てくださいこのうさぎさん。とても可愛いです。声をかけてもらった時、あまりに嬉しくて、その場でステップを踏み、脚をもつれさせました。これは本当の話です。だって、交換日記! しかも大人の! そんな楽しそうなものに声をかけてもらえるって、とても名誉です。互いの言葉で傷つかないであろう確信があり、互いの言葉を楽しめるであろう予感がある、ということだと思うのですよ。非常に稀有なことです。
さぶろうさんのお友達のために軽く自分を紹介します。趣味で字を書いています。普段は働いたり、可愛い娘を吸ったり、イヤイヤ家事をしたり、本を読んだり自転車を漕いだりしています。SDR2の二次創作をきっかけにさぶろうさんに出会い、懐いています。
私は、さぶろうさんの漫画の『語りすぎず伝える』技法と、人間の感情の切り出し方が好きです。重い感情は、重い言葉や性的行為のみを媒介するものではなく、柔らかな動作や何気ない言葉の中に滲むことも多いのだということが、胸にストンと落ちてくるからです。人間の描き様が、至って自然というか。人間の合理を、非合理を、複層的な思考を無視しないというか。でもその洞察は、さぶろうさんが深く深く潜った思索の中で掴んでおられるものな気もしています。よくわからない石をエンエン言いながら掘り進めて何となく何かに当たったらいいな、な私とは違って。
そんなさぶろうさんに、類似点と相違点を整理してもらって、うんうん頷いていました。互いの合理を尊重できる、素敵です。でも本当にそうだと思うんです。それから私はさぶろうさんと、言語を共有できる気がしています。なかなかいません。実のところ、素の思考を素の語彙で話すことは結構怖いものですが、さぶろうさんなら大丈夫だろうと感じています。思いつくまま語って変だ! とか、思想が強い! と言われることがが多い生涯だったので、ついつい表現を丸めたり、ふざけたりしてしまうところがあるのですが、ここではありのまま行かせていただきましょう! という気持ちです。オラオラ!
さて、私はさぶろうさんと違って、フィーリングで勝手なことを言うので、勝手なことを言います。さぶろうさんと私は心理学のビックファイブ理論において、『開放性』が高く、『協調性』はそんなに高くないという共通点があるんじゃないか!? と思っています。ちなみに私は心理学には何一つ専門知識を持っていないので、マジで適当な話です、これは。
この開放性というのは、好奇心や想像力ですね。新たな情報に心を開いているかどうか、というものです。一方の協調性は、協調、と同調、に分けられます。さぶ、うさんは思慮深く想像力があり、優しさは抱いているけれども、同調はあまりしないタイプだとお見受けします。なんでわかってくれないの? 冷たくない? とか言われたこと、ないです?(なかったらすみません)
しかし私は、悪戯な同調は、双方の思想をどちらかに引き寄せ捻じ曲げることでもあると考えています。つまり同調しないことこそが、尊重でもありうるのだというスタンスです。
私は、いい意味の個人主義というか、自分の中の道理や軸があり、それを言語にしてくれる人が好きです。自分の感情や考えを言語にしてくれるということは、いわゆるシンパシー的な共感や優しさではないので、しばしば『自己主張』と受け止められがちです。ただ私は、人間が他者の気持ちを理解することなど不可能だと思っていて、言語で自分の思考を表明してくれることは、『思いやり』だとも思うんですよね。三浦しをん先生もそう言っていました。そしてさぶろうさんは、私の声を聞いてくれる(読んでもくれる)。だから私はさぶろうさんを、とても優しい人だと思っている、というわけです。
さぶろうさんと、中学生の時や高校生の時に出会いたかった。出会っていればもう少し、楽しい思春期だった気がするんです。放課後、謎のろくろ回しに付き合ってもらって、ああでもないこうでもないって、リプトンの紅茶パックを片手に持って歩くとか、したかった。
この日記は、大人のアフタヌーンティーを想定していると言うことですが、私はあるいは思春期にしたかった語りをしてしまうかもしれません。でもまぁそれすら、許してもらえると信じています。
互いの居心地のよい時間になりますように。畳む
Subro
2025/10/14 22:14
こんにちは。さぶろうです。普段は絵を描いたり、日記を書いたり、ドイツ語を学んだり、仕事をしたりしている。同人はお休み中だけれど、それでも交流を続けてくださるお友達の皆さんのおかげで、元気にインターネットを楽しんでいる。そんな人だ。
さて、私が沢村さんを交換日記に誘った理由を書こうと思う。
実のところ、「交換日記をやりたいから沢村さんを誘った」のではなく、「沢村さんと交換日記をやりたくて誘った」が正しい。
沢村さんと交換日記をやるのは、それはもう楽しいだろうと思っている。沢村さんと私は、同質なようでかなり異なる人間である。だからこそ、文章を投げ交わしてみたかったのだ。
沢村さんは、スーパーダンガンロンパ2の同人を通じて知り合った字書きである。二次創作を超えた話の面白さがありつつも、原作の延長線上だと感じられるキャラクター描写を貫く沢村さんの作品を、私はとにかく好いている。
沢村さんが表現するキャラクターは、私が二次創作で表現したい要素とかなり近いことも理由だろう。強いシンパシーを感じてきたし、人間としても気が合うと感じている。
同人のことだけではない。
勉強に対してそこそこ得意げな顔ができるあたりも近いと感じているし、なによりお互い作文中毒である。長ったらしい日記をほぼ毎日書いている人間は、自分の周りには沢村さんしかいない。しかも沢村さんは日記に加えて小説作品も書いているらしい。
お互い、日本の平均的な成人がプライベートで作文するざっと300倍ぐらいの文字を書いているだろう。
しかし、こんなに似ているのに、沢村さんは私と異なる人間だと自覚する瞬間がたくさんある。
そもそもライフプランが違う。独身を決した実家暮らしの身と、家庭とお子さんがいる身。生活のあらゆることに対する優先順位が異なる。
日記の組み立ても異なる。私はあることに対する深掘りを進めたり言語化をすることを目的とした日記であり、読み物というよりも思考の書き散らしを主としている(よね?)。
沢村さんの日記はひとつの物語のように、エッセイ的であり、読み物の体をなすことが主軸に置かれているように感じる。
触れてきた文章も大いに異なる。縦書きの明朝体に親しんできた読書家の沢村さんに対し、私はインターネットで横文字ゴシック体を嗜んできた。
そして、細かいことを言えば、中高生時代「かっこいい」に属する女として、その状態を楽しんでいた私に対して、沢村さんはそういった目線にヤキモキした思いを抱いていたようだ(2025/10/2の沢村さんの日記より)
AとBのプランがあったとして、わたしはわたしの合理でAを選ぶし、沢村さんは沢村さんの合理でBを選ぶ。お互いの選択を尊重しているし、お互いの合理に感心し合う。沢村さんと私はたぶん、そんな関係だ。
だから交換日記をやれば、お互いの立てる筋道に感心し合いながら、お互いの選択を尊重できると思ったのだ。
普段の単独の日記とまた違った日記を、たくさん楽しみたい。よければ、沢村さんもみなさんも一緒にお楽しみください。
最後に、この交換日記のルールを説明する。
15日ごろに私が更新し、30日あたりに沢村さんが更新する。期限は2026年12月末まで。
お互い作文中毒者なので、頻度と期限を決めなければ永遠に高速交換が延々と続く羽目になるのだ。一度既読をつけたからには返さねばならないLINEのようになったらとても苦しい。
また、お互いに「交換日記を最後に持っていた人」になりたくない。私から始まり、沢村さんで終わる。そんなまったりルールで行う。
そして、感想は大いにありがたいが、特にフォームは設けない。沢村さん宛てのメッセージがあれば沢村さんのしずかなインターネット宛てに、さぶろうにメッセージがあればさぶろうに送って欲しい。
まあ、きっと、私か沢村さんの日記を読んでいる人が読者なのだから、目につくあたりでてきとうに感想をポストするとよいだろう。勝手に見つけて喜ぶ。
相手への質問もないこんな日記だが、沢村さんならきっとつないでくれるだろう。何か質問コーナーが欲しければ、設けてください。では、また15日に。
さぶろう畳む
さて、私が沢村さんを交換日記に誘った理由を書こうと思う。
実のところ、「交換日記をやりたいから沢村さんを誘った」のではなく、「沢村さんと交換日記をやりたくて誘った」が正しい。
沢村さんと交換日記をやるのは、それはもう楽しいだろうと思っている。沢村さんと私は、同質なようでかなり異なる人間である。だからこそ、文章を投げ交わしてみたかったのだ。
沢村さんは、スーパーダンガンロンパ2の同人を通じて知り合った字書きである。二次創作を超えた話の面白さがありつつも、原作の延長線上だと感じられるキャラクター描写を貫く沢村さんの作品を、私はとにかく好いている。
沢村さんが表現するキャラクターは、私が二次創作で表現したい要素とかなり近いことも理由だろう。強いシンパシーを感じてきたし、人間としても気が合うと感じている。
同人のことだけではない。
勉強に対してそこそこ得意げな顔ができるあたりも近いと感じているし、なによりお互い作文中毒である。長ったらしい日記をほぼ毎日書いている人間は、自分の周りには沢村さんしかいない。しかも沢村さんは日記に加えて小説作品も書いているらしい。
お互い、日本の平均的な成人がプライベートで作文するざっと300倍ぐらいの文字を書いているだろう。
しかし、こんなに似ているのに、沢村さんは私と異なる人間だと自覚する瞬間がたくさんある。
そもそもライフプランが違う。独身を決した実家暮らしの身と、家庭とお子さんがいる身。生活のあらゆることに対する優先順位が異なる。
日記の組み立ても異なる。私はあることに対する深掘りを進めたり言語化をすることを目的とした日記であり、読み物というよりも思考の書き散らしを主としている(よね?)。
沢村さんの日記はひとつの物語のように、エッセイ的であり、読み物の体をなすことが主軸に置かれているように感じる。
触れてきた文章も大いに異なる。縦書きの明朝体に親しんできた読書家の沢村さんに対し、私はインターネットで横文字ゴシック体を嗜んできた。
そして、細かいことを言えば、中高生時代「かっこいい」に属する女として、その状態を楽しんでいた私に対して、沢村さんはそういった目線にヤキモキした思いを抱いていたようだ(2025/10/2の沢村さんの日記より)
AとBのプランがあったとして、わたしはわたしの合理でAを選ぶし、沢村さんは沢村さんの合理でBを選ぶ。お互いの選択を尊重しているし、お互いの合理に感心し合う。沢村さんと私はたぶん、そんな関係だ。
だから交換日記をやれば、お互いの立てる筋道に感心し合いながら、お互いの選択を尊重できると思ったのだ。
普段の単独の日記とまた違った日記を、たくさん楽しみたい。よければ、沢村さんもみなさんも一緒にお楽しみください。
最後に、この交換日記のルールを説明する。
15日ごろに私が更新し、30日あたりに沢村さんが更新する。期限は2026年12月末まで。
お互い作文中毒者なので、頻度と期限を決めなければ永遠に高速交換が延々と続く羽目になるのだ。一度既読をつけたからには返さねばならないLINEのようになったらとても苦しい。
また、お互いに「交換日記を最後に持っていた人」になりたくない。私から始まり、沢村さんで終わる。そんなまったりルールで行う。
そして、感想は大いにありがたいが、特にフォームは設けない。沢村さん宛てのメッセージがあれば沢村さんのしずかなインターネット宛てに、さぶろうにメッセージがあればさぶろうに送って欲しい。
まあ、きっと、私か沢村さんの日記を読んでいる人が読者なのだから、目につくあたりでてきとうに感想をポストするとよいだろう。勝手に見つけて喜ぶ。
相手への質問もないこんな日記だが、沢村さんならきっとつないでくれるだろう。何か質問コーナーが欲しければ、設けてください。では、また15日に。
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Subro
2025/10/4 21:44
沢村とSubroの交換日記です。
ルール:
・毎月15日ごろにSubroが更新
・毎月30日ごろに沢村が更新
・2026年12月まで
・特に更新の連絡はお互いせず、心に余裕のある範囲で書く
⚫︎沢村
趣味で字を書く人
日記:https://sizu.me/sawa0615mura
⚫︎Subro(さぶろう)
趣味で絵を描く人
日記:https://subro36.sub.jp/TegaLog/tegalog.c...
ルール:
・毎月15日ごろにSubroが更新
・毎月30日ごろに沢村が更新
・2026年12月まで
・特に更新の連絡はお互いせず、心に余裕のある範囲で書く
⚫︎沢村
趣味で字を書く人
日記:https://sizu.me/sawa0615mura
⚫︎Subro(さぶろう)
趣味で絵を描く人
日記:https://subro36.sub.jp/TegaLog/tegalog.c...
楽しげな年末年始を共有してくださりありがとうございます。ゲーム制限なしの特別感とか、1,500円もお菓子に使えるワクワクさとか、何故だか24時まで意地を張る様子とか。我が家とはまた異なる様相なのですが、その非日常感やそわそわした感じに身に覚えがあって、愛おしい気持ちになりました。
そういえば、伊勢丹好きはお互いの共通点ですね。伊勢丹はとにかく品揃えが他店より抜群に面白いです。
ルイ・ヴィトンやらアルマーニやら、高級ブランドのテナントもあるのですが、何気ない雑貨コーナーや子供玩具売り場に揃えられた品物がとても面白い。あら素敵、と思えたり、こんなものがお家にあったら嬉しいな、と思えたり、そしてモノはイイけどこの値段で誰が買うんだ?というモノもあったりします。ウィンドウショッピングの楽しさは伊勢丹にあります。
接客も総じて良いですしね。Tシャツ姿で暇そうにうろついていた時に、アルマーニのお姉さんに声をかけられて、香水をたくさん試させてもらいました。見た目の通り、買わなかったけど。伊勢丹って最高〜♪
加えて、伊勢丹にいると景気が良いと感じて気分が上がります。ふと目に入った伊勢丹内のスーパーで、3,000円のシャインマスカットを2家族がそれぞれカゴに収める姿。なんとも景気がいい。
こういったご家庭が、ポンと考えず出せる額っていくらくらいなのでしょうか。
伊勢丹といえば、1,000万円を即日で使い切るシミュレーションを夜な夜な考えていました。私の回答はこちらです。
まず即日でインテリアコーディネーターを雇い、我が実家の家具を総処分する前金を払い、家具屋と伊勢丹に赴いて総入れ替えします。高いディフューザーも置いたりして。ここで500万円。
家具を買ったその足で、伊勢丹でコートを2着買い、STUDIOUS(服屋)で普段着を20着買い、ワンピースを5着くらい買います。AKIRANAKA、たくさん買うぞ。AKIRANAKAとは、服が10万以上するかっちょいい服ブランドです。
ここまでで総額600万円。
あと残りでバイオリン(300万円)と、余裕があればホテルのスイートルームに泊まる。ここまでで1,000万円くらいではないでしょうか。
旅行も考えたものの、1日で使い切るなら移動時間が無駄になります。なので全て何かしらの現物に変えるのが吉と読みました。前金は当日中に払うなら、セーフですよね?
ちなみに、1億円の使い道を考えるのは睡眠導入に良いらしいです。昔々に狛+日でそんな漫画を描きましたね。
閑話休題。
小学生の頃を思い浮かべると、自分が嫌な人間だった思い出ばかりが浮かびます。小学生の頃は、自己顕示欲が強く、あまり他者を尊重しないようなガキでした。楽しい/面白いに突っ走って他人がどう思うか考えて行動することすらなかったのだと思います。
ただ、大人の精神性で子供の頃を評価するのはなんともズルな気もします。たとえば、3歳の姪が15歳になったとき、アンタはトイレに間に合わずお漏らししたのよと笑うのは卑怯なのと同じように、30歳の私が6〜12歳の私の性質の悪さを戒めるのはなんだか私がかわいそうな気がします。
行いにフォーカスしてしまうと、なんだか自分の根本が悪であったという保証が積み上がっていきます。今の脳みそのまま小学生に戻って、大人でまともな精神性のまま過ごしたかった。うーん、いいところはあったはずだけれど。
なので、角度を変えて伝えようと思います。私は中学が私立だったため、地元の友達がいません。ただ、その中でもフルネームで名前を覚えている子が何人かいて、その思い出でも振り返ろうと思います。
①絵の上手い友達(小3)ーA
小学校で出会ったAちゃんという友達は、それはもう絵がうまかったです。彼女は「愛してるぜ⭐︎ベイベ」の槙よう子先生の絵柄を大人っぽくした絵柄だったと記憶しています。思い出の中のAちゃんは今のわたしより絵が上手いままです。
Aちゃんの手描きの絵を貼り付けた大事なノートを、惑星の自由研究のノートとして使い、展示した記憶があります。
私が初めて他人との上下の区別を感じたのはこのAちゃんだったと思います。既に絵が好きだった私ですが、Aちゃんに感化されて漫画家になりたがり、Aちゃんは憧れとなりました。Aちゃんが好きなものは私も好きって言うし。Aちゃんが違うって言えば違うというわけです。
中学にあがりAちゃんとは疎遠になりましたが、絵が楽しいものだけではなく上手い/下手がある、という意識は彼女が生み出したかもしれません。
中学は中学で、Twitterでたくさんの「神絵師」である同級生に触れ、評価数を比較して、「タメ口ok」であるはずの同級生たちとは異なり、自分の絵がpixivのデイリーに入れないことに嘆いていました。(この同級生たちはイラストレーターになったり漫画家になったり)
今は数的評価に拘泥せずに生きています。昔を振り返ると、絵の向き合い方は大人になって大きく変化したところだなと思います。そして、やっぱりその火を点けたのは、あの絵がうまかったAちゃんだったと思います。
②中学受験のきっかけとなった子ーB
「BちゃんがXX中学を受験するから私も中学受験する!」
と子供にインターホン越しに言われた母は大層驚いたでしょう。こんなくだらない発端にも関わらず、中学受験の準備をすぐに進めてくれた親には感謝しかない、なんてことはなく、30歳になって考えてみるとよくそんな切替ができたな、と驚愕します。子育てにかかる費用が全く変わってくる決断ですから。感謝70驚愕30です。
中学受験で初めて好きな教科というものに出逢います。数学です。中学受験というのは早い子は小3から準備するもので、5年2月から始めた私は周回遅れの状態でした。初めて出会った算数の先生がおもしろく、あっという間に数学が好きな教科になったことを覚えています。社会も好きでした。国語はこの時点でもう苦手でした。
最終的に、Bちゃんは落ち、私は合格します。その後Bちゃんとは仲違いしたわけではないですが、その後どうなったか知りません。
この受験で勉強の楽しさを知り、そして自分の根幹を作ることになる中高への入学ができ、そして能力による争いのむごさをどこか知った気がします。
③ゲームと漫画の箱庭ーCちゃん
Cちゃんは友達が少ない子でした。私はときどきCちゃんの家に学校帰りに赴き、一緒にゲームをしていました。64カービィ、GCどう森はここで出逢いました。
Cちゃんの家にはハムスターがたくさんいて、ジャンガリアンやキンクマがいました。
そして、私の少ないお小遣いでは買えなかった、「神風快盗ジャンヌ」があり、読ませてもらいました。
なんという思い出でもなく、何か根幹に関わっているわけでもないのですが、Cちゃんと私は1対1の友達だったと思います。何かのグループだったわけでもなく、学校の思い出は思い当たりません。まあ、私がゲームやりたくて利用していた可能性も拭えませんが。ただ、あのお家の1階で、ハムスターが滑車を走らせる音を聞きながら、ブラウン管を見つめた空間を今でもなんとなく思い出します。
この3人、また他の子に対して真摯でいられた自信はなんだかありません。いや、今具体的な思い出を振り返ると、ふつうにガキゆえに迷惑かけた気もします。それでも友達でいてくれてありがとう。
なんだか保険ばかりの暗い交換日記になってしまいました。完全な人間でありたいのに、そうしてみなさんにも見せたいのに、やはり過去の自分の行いはしっかり記憶にこびりついているんですよね。
しかし、あれから20年以上経ち、30歳の私はめでたくも精神が大人になりました。他人への気遣い、慮り、少しはできるようになりました。社交性はあがっていないけれど。
また20年後、今の私を馬鹿だなあと笑う私もいるのでしょう。それは、ズルいからやめてください。
さて、沢村さんの中で自分の人生において決定的な出来事ってありますか?自分の考え、道筋を決めた出来事です。瞬間的な話でなくても、長期の話でもよいです。ぜひ教えてください。
もしくは、他人から見たらどうでもいいけれど、沢村さんの中でずっと忘れられず思い出したら笑ってしまう出来事ってありますか?
私はひとりで「進撃の巨人」をみながら卵アイスを食べていたら、見事爆発し、バニラアイスが体に飛び散りエロ漫画みたいになったことがあります。下品なのであまり他人には言えないのですが、いまだに思い出して一人で笑ってます。