交換日記- Exchange Memo Logger -

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沢村

 いつもごちゃごちゃとした日記を書き散らかしている私ですが、やはり交換日記となると身が引き締まる思いです。そこに落ちていたボールを拾って壁にぶん投げ、跳ね返ってきたボールに衝突しその痛みで悶えてばかりの私なので、さぶろうさんに投げてもらったボールをキャッチし、その胸元へ投げ返すことが果たしてできるものなのか、緊張ですね。

 というわけで、お尋ねいただいた「自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなってしまったこと」について考えるなどしていました。考え、考え、考えてみたのですが、いまいち思い当たりませんでした。なぜでしょう? 例えば子供が産まれて、子供が酷い目に遭う話がダメになったという話はしばしば聞くのですが、正直あまりその辺りも気にならないのです。何なら可哀想な子供をキャラクターに据えた創作までしています。うーん?
 となりのトトロとか、よく典型例にあげられますよね。サツキちゃんは今でいう「ヤングケアラー」です。大人になって見返すと、サツキの辛さが気になって、なかなか没入できない人も多いのだとか。確かにサツキちゃんは今なら福祉の射程範囲でしょうが、「まぁ、当時はこんなものだったのでしょう」と思いますし、それを凌駕する夢いっぱいの、しかし奇妙な物語性や、映像の美しさがあり、「子供はきちんと社会で守るべきだ」いう私の思想を忘却させてくれます。要は私の現在の倫理観は、作品に敗北しているのです。まだ読めていないのですが、ペケみっつを今読み返してみても、倫理という側面では「おもしろ!」で終わってしまう気がしています。面白さに負ける気がしている。

 作品を読んだ時に感じる心の波立ちは、そういったものをどれだけ大事にしていて、日頃からよく考えているか、ということが現れるポイントだと思います。きっとさぶろうさんは「倫理観」を、普段から大事にしておられるのでしょう。社会の声と自分の心を比べる限り、私の倫理観は(あくまで作品を見るときの観点としては、と言い訳をしておきます)相対的に弱い感がありますね。むむむ。しかし私も、「年と共に楽しめなくなった」ものはいくつかあります。逆に「楽しめる」ようになったものも。技術的なものやロジック的なもの(主に、そこに「必然性」を感じさせてくれるかーー「そういう」ものだと納得させてくれるかどうか)であったり、自分の知識や経験が増えてやっと、「対象年齢」になれたようなものであったり。過去楽しかったものに触れて、同じように楽しめなくなることはもの寂しさがありますが、それは自然なことで、きっとある程度仕方のないものなのでしょう。一方で、「今の私」「これからの私」が楽しめるであろうものも、きっと沢山あります。逆に永久に感性が変わらないというのも、自分の停滞の証左でしかなく、それはそれで辛いものですから、私としてはポジティブに変化を受け入れたいなと思う次第です。

 ちなみに私は「恋人や配偶者がいるにも関わらず『必要なこと』みたいに他と性行為をして、何ならちょっと『エモい』みたいな感じになってる表現」とか、「妊娠や出産や授乳を『エロ』コンテンツみたいに取り扱っている」「なんとなく成り行きで寂しさを紛らわすために性行為をする」みたいなものは苦手で、ささくれ立つとかそういうレベルでもないくらいに苛立ちます。今回これを書くにあたってその辺りについても思いを巡らせてみたのですが、それは別に価値変容ではなく、昔からでした。チャンチャン。でも誰彼構わずセックスしまくる村上春樹の登場人物なんかは、いっそ爽やかで気にならず、結構好きです。春樹の才能に敗北しています。(苦手な方も多いと聞きますが、ルポ本とかすっごく面白いですよ。よかったらこれを機に)

 さて、「恋」についての話題が出て、面白いなと思いました。「人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか」という問いに私が答えるとするならば、「NO」かな、というところです。

 私は、自分がヘテロロマンティック、デミセクシュアルであると自認しています。(最近性欲薄くね?と思い始めました、他の人の話や世のコンテンツを見るに、ですが)(ピルのせいか?)あまり詳しくないし、何か診断を受けたわけでもないのでご容赦ください。恋愛経験は多くないのですが、それなりに人を好きになったことはあります。少女漫画のテンプレート……あれはあれでやはり一つの「夢」であり「お約束」であって、実際の恋愛とは違うんじゃないかな? と思うのですが、どうなんでしょう。
 うーん、でも私の恋愛に対する考えや、恋愛しているという自認の時に心にある感情が、他の人の「それ」と並べて眺めたときに同質であるとは限らなくて……いや、確実に違うはずですよね。じゃあ別に夢でもないのかな。ある、人もいる。スペクトラム状のものなのかと。

 私自身は「恋」は尊く、一方で醜い感情だと考えています。そのアンバランスさと曖昧さが、人を恋の虜にして、多くの物語が作られているのだろうと思います。人間は抽象化ができる珍しい動物ですが、抽象を抽象のままにしておくと不安定になるものですから、具体的な「物語」に乗せて抽象を理解したがるのかなと。少女漫画のテンプレートはその「一例」で、「恋」の理解に役立つ一種の筋書きで、「わかりやすく受け入れやすい」型、なのでしょう。そのテンプレートが必要な時代や、時期、というのは存在するので、良いのではないかと思います。それがなければ、思春期に多くの人がかち合う感情に相応しい言葉がつけられなくて、どう整理したらいいのかわからなくて、苦しくなる人もきっといる。が、テンプレはテンプレであって、「恋をする人」の現実そのものではなかろう、というのが私の理解です。要はファンタジーです。「家族」というワードに対応するサザエさんという「概念」みたいなものだと解しています。理解に必要な、理想を交えた一般論。こと少女漫画という分野においては、自分の感情を否定しないために、あるいは浄化するための装置でもあるのではないでしょうか。
 が、昔のダイレクトな感情は忘れてしまいましたが、今は私自身も「恋情」や「性欲」を排除して「理性」で人格を見て、その「理性」的側面で人を愛し愛されたいと望んでいますし、そういう物語の方が何となく、納得感があります。創作においても、恋という本能的な感情に流されすぎない「理性的な惹かれ」「理性的な決断」そういうことが表現できたらいいなと考え、実践を目指しています。
 でもそれは、私があまり性欲を人に抱かないからなのでしょうか? いやそもそも、「理性」で判断しているように思っていても、自身にその感情が存在する以上、その裏には結局「恋情」や「性欲」があるのでしょうか? 恋は本当に、感情的なものなのでしょうか? (例えば、「ハイスペックな人を好きになる」という事象の裏には、よい遺伝子を求める本能的な欲求と、それが自分にとってメリットが大きいというかなりの理性的な判断があるように思います)
 
 うーん? わからなくなってきました。風呂敷を広げるだけ広げて、片付けができない。あぁそうです、私は片付けが苦手なんですよね。ううん、うーん、とっ散らかり。本能が先か、感情が先か、理性が先か、全てないまぜ? 人による?

 このまま行くとデカルトに到達してしまう気がするので、一旦やめておきましょう。ちょっと関係ないのですが、さぶろうさんに聞いてみたいことがあったので、聞いてみて良いですか? 最近『文学部に行っていたら』『そうでなくてももっと勉強しておけば』『せめて文芸サークルに入っていれば』『本を、もっと……』などと思うシーンがとても多いです。年の瀬にありがちな年相応の後悔だと思うのですが、さぶろうさんはそんなことありますか?
 もし大学に戻れたら、何を学んでどう過ごしたいですか? そしてそこで私に出会ったら、友達になってくれますか?畳む
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沢村さんの話を受けて、「人に興味がない」ってなんだろう? ということを語ろうと思った。のだけれど、全く意見がまとまらないので、今回は違う話をしようと思う。一気に書き上げたので、まとなりのなさはご容赦いただきたい。

今回は、変わってしまった私の感性と古の少女漫画の話をしましょう。



Blueskyで先日「僕と彼女の×××」(以下、×××(読み:ペケみっつ))という少女漫画の話をしたところ、沢村さんも含め何人かが反応してくださった。

「×××」という作品がずっと前から好きだった。姉の本棚からこっそり抜き取った漫画の中でも、数冊しか覚えていないタイトルのひとつだ。
姉にバレないように毎日少しずつ読み進めていたが、続きが読みたくて仕方なかったことを覚えている。
しかし、現代になって読むと、自分の中の感情のささくれを無視できずに読めない。自分の変化と度量のなさが悲しいと言う話である。

「×××」は森永あい先生が2001年〜2013年に連載していたラブコメ漫画である。
ざっくりとあらすじを言う。以下、ネタバレ注意である。

〜〜〜
主人公のあきらは美男子だが、軟弱な性格でいつも弱気な男である。
そんな彼は、下品かつ暴力的…だけれども絶世の美少女である菜々子に密かに恋心を抱いていた。

あきらと菜々子は怪しげな実験に巻き込まれた結果、なんと中身が入れ替わってしまう!

あきらの美青年といえる見た目と菜々子の粗暴な性格は見事にマッチし、菜々子も入れ替わった自身の身体を気に入ってしまう。
そして、元々の菜々子の女友達(椎名)を自分の彼女にしてしまう暴挙に出る。

菜々子に対して恋心を抱いていたあきらは、内心複雑で…

そんな折、元のあきらの親友である千本木が、菜々子(in あきら)に告白してきたのだ!どうなる、入れ替わり生活!どうなる、あきらの身体!
〜〜〜

上記あらすじでは、あえて「美男子だが軟弱」「暴力的だが美女」という言葉を使ってみた。
やはり昔の少女漫画らしく、令和の倫理観ではなかなかみない価値観が盛りだくさんなのである。

「×××」は、あらすじだけでもわかる通り、旧来のジェンダー観がものすごく強い。
男性は男らしい方がかっこいい、女性は女らしいほうが可愛い。なお、男は浮気しても許される。

ルッキズムも根強い。かっこいい/かわいい人間とブサイクな人間の描き分けが極端であり、美男・美女は何をしても許されるし恵まれている。一方、ブサイクな人間が恋する様はギャグとして扱われている。

これは「×××」だけでなく森永あい先生の作品に共通していることで、別作の「山田太郎ものがたり」も同様の価値観で描かれている。
経済力がない男は魅力がないけれども、美貌には抗えないこともある…みたいな価値観が面白さの根底にある作品である。

「山田太郎ものがたり」では、両親の経済的DVがギャグ描写として描かれるシーンもある。主人公山田太郎は顔が美しい。
しかし、多人数兄弟で非常に貧乏であり、太郎がバイトで身を粉にしながら、兄弟と共に爪に火を灯して生活している。
そんな貧乏な暮らしの中、母親が意味不明なものに大金を注ぎ込んでしまう場面が頻発する。
なお、これにより、太郎が得た金がリセットされる。山田太郎が貧乏というキャラクターの一貫性を、母親の金遣いの荒さによって保っている仕組みなわけだ。

両作品にとても批判的に見えると思うが、まったく批判したいわけではない。
2000年代〜2010年前半の作品は、この倫理観でしっかり大衆を楽しませることができた。
そもそも、2020年後半に生きる我々をターゲットにして描かれたものではない。私の今の倫理観で見たら、心が毛羽立つ部分があると言う話である。

「×××」も「山田太郎ものがたり」も今読んでもとても面白い作品だ。ただ、私の中でどうしても理性が引っかかってしまう。
自分の中の倫理観を戻したいわけでもないのだが、純粋に楽しめないことが寂しいと感じる。
物語を楽しむことは自分の心の中の話であり、何を考えていてもいいはずだ。理性と感性をバトルさせなくたって、心のままに楽しんでいいはずなのだ。
わざわざ「この親経済的DVだろ…」と心の中でアラートを上げなくていい。しかしどうしても、感性に食い込むほどに、私の中の倫理は変わってしまった。

さて、私は別の場所で、現代のBL二次創作のテンプレート的表現の源流は2000〜2010年代前半の少女漫画から来ていると説いたこと がある。

ざっくり言うと、2000年代〜2010年代前半の少女漫画に影響を受けた女性がBL二次創作を描いているため、原作のキャラクターの性格に関わらず、以下のような少女漫画表現が攻め(ヒーロー)と受け(ヒロイン)に適用されるという話である。
・笑顔のヒロインにドキッ…!///とするヒーロー
・ヒロインに対して「かわいすぎ…っ!///」と口を押さえるヒーロー
・ヒロインにゾッコンのヒーローに対してモブの「眼科いけ」
・ヒーローがかっこいいことをした時にすぐ照れるヒロイン(カァァ…///)
・お互いがお互いの顔を好いており、顔に免じがち
・キスやらセックスがやたら上手くて抗えない

照れすぎだろう。なお、「///」とは、古のインターネット小説における照れを表す表現である。
人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか。私がデミセクシャル(※)なので知らないだけなのだろうか。他人に恋心を抱く人がいたら教えてください。
※アロマンスの一種で、あんまり恋愛感情を抱かない恋愛指向のこと

上記の言い種から察せられる通り、今の私はこのような少女漫画の影響を受けたテンプレート表現をどうも楽しめない。
単純にデミセクシャルの自認が深く影響しており、人間の関係性が育っていく様を感情由来ではなく理性由来で見てしまうのである。
人に魅力を感じるには理由が必要で、それが恋情で片付けられると話が破綻しているように感じてしまう。(追記参照)

もちろん物語をどう楽しもうが個人の自由だ。そして、物語の価値観が作者の価値観というわけではない。
また、違った価値観であってもnot for meであるだけで、存在していいのだ。口や文面で、私はそう言う。

なのに、どこか私の中で世の中の「浄化」ー自分の価値観への変更ーを自分勝手に求めてしまっている。
その浄化を求める自分の度量の狭さが、結構苦しい。心から割り切れるようになる日がくるのだろうか。

私はこの自認にひっついて育った倫理観を気に入っている。しかし、どこか心が狭まったような気がしてならないのだ。

森永あい作品に登場するキャラクターは欠点が多い。面食いばかりだし、性欲にまっすぐだし、他人を侮辱する。

一方、現代のキャラクターは、かなり倫理観がしっかりしていると思う。ジャンプのラブコメからも、なんの特徴もない主人公が激モテする話はなくなっている。
優しく家庭的で惚れる要素のある人間描写をしっかり描いた上で、モテている話ばかりになっている。(「ひまてん」「アオのハコ」など)

森永あい作品のようなキャラクターがいていい、とも正直理性では言い難い。
ただ、こういったキャラクターはもう生まれないだろうと思うと、このような描写をぎりぎり楽しめる世代でよかったとも思うのだ。

色々と書いたものの、結局自分の倫理観に合った作品やキャラクターが好きになる。私の中の理性が私の中の感情と手を握ってくれる漫画を快適に楽しんでいる。

最近のおすすめ漫画は「やちるさんはほめるとのびる」である。八尺の血を持つ背の大きな女性と、巨女フェチの男性とのボーイミーツガール作品である。
両思いだが付き合っていない男女の性的同意(しかも、女→男の加害)、LGBTの透明化などの人間が生きていたら生じ得るかもしれない話を、そのキャラクターのまま描いている。
その人間性のリアルさが面白い。し、なによりこのような題材を扱っていながら、やちるさんがしっかりとえっちに描かれているのがすごい。
キャラクターの人間性をあまり心配させず、しかしながらこんなえっちなラブコメって作れるのか〜と感心してしまった。
https://comic-days.com/episode/255091296...

沢村さんは何か、ここ最近で自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなったものはありますか。そしてぜひ、語りたいことがあれば教えてください。

ーーー
追記
恋愛感情や性欲は、理性と反対にあるように感じられることから、スキャンダラスで下品なものと扱われる文脈も多々ある。
なので、アセクシャル亜種がこのような立場でいるだけで、まるでこちらが清潔な正義のように「見え」て、「汚い我々」を批判されたと感じて怒る人がいる。
特に私は声の大きな感想屋であり、自分の好みに合った作品を長文ベタ褒めするので、not for me作品への(無)反応との温度差も怒りに薪をくべているのだと思う。

上記の通り、どこか浄化の思想があるにはあるので、感情で言えば剣を構える勢いではある。
が、理性で言えば好みなぞ争っても仕方ない。別に恋愛感情や性欲は99%の人が抱くことであり、人間の一大コンテンツなのである。
for youがnot for meなだけなのである。そして、恋愛・性愛の強い作品が存在することは素晴らしく、またそれを楽しめることも人生の彩りになっているのである。

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沢村

2025年10月
 どうも沢村です。この度は交換日記に誘ってもらって、環境を整えていただいて、ありがとうございます! 見てくださいこのうさぎさん。とても可愛いです。声をかけてもらった時、あまりに嬉しくて、その場でステップを踏み、脚をもつれさせました。これは本当の話です。だって、交換日記! しかも大人の! そんな楽しそうなものに声をかけてもらえるって、とても名誉です。互いの言葉で傷つかないであろう確信があり、互いの言葉を楽しめるであろう予感がある、ということだと思うのですよ。非常に稀有なことです。

 さぶろうさんのお友達のために軽く自分を紹介します。趣味で字を書いています。普段は働いたり、可愛い娘を吸ったり、イヤイヤ家事をしたり、本を読んだり自転車を漕いだりしています。SDR2の二次創作をきっかけにさぶろうさんに出会い、懐いています。
 
 私は、さぶろうさんの漫画の『語りすぎず伝える』技法と、人間の感情の切り出し方が好きです。重い感情は、重い言葉や性的行為のみを媒介するものではなく、柔らかな動作や何気ない言葉の中に滲むことも多いのだということが、胸にストンと落ちてくるからです。人間の描き様が、至って自然というか。人間の合理を、非合理を、複層的な思考を無視しないというか。でもその洞察は、さぶろうさんが深く深く潜った思索の中で掴んでおられるものな気もしています。よくわからない石をエンエン言いながら掘り進めて何となく何かに当たったらいいな、な私とは違って。

 そんなさぶろうさんに、類似点と相違点を整理してもらって、うんうん頷いていました。互いの合理を尊重できる、素敵です。でも本当にそうだと思うんです。それから私はさぶろうさんと、言語を共有できる気がしています。なかなかいません。実のところ、素の思考を素の語彙で話すことは結構怖いものですが、さぶろうさんなら大丈夫だろうと感じています。思いつくまま語って変だ! とか、思想が強い! と言われることがが多い生涯だったので、ついつい表現を丸めたり、ふざけたりしてしまうところがあるのですが、ここではありのまま行かせていただきましょう! という気持ちです。オラオラ!
 
 さて、私はさぶろうさんと違って、フィーリングで勝手なことを言うので、勝手なことを言います。さぶろうさんと私は心理学のビックファイブ理論において、『開放性』が高く、『協調性』はそんなに高くないという共通点があるんじゃないか!? と思っています。ちなみに私は心理学には何一つ専門知識を持っていないので、マジで適当な話です、これは。
 この開放性というのは、好奇心や想像力ですね。新たな情報に心を開いているかどうか、というものです。一方の協調性は、協調、と同調、に分けられます。さぶ、うさんは思慮深く想像力があり、優しさは抱いているけれども、同調はあまりしないタイプだとお見受けします。なんでわかってくれないの? 冷たくない? とか言われたこと、ないです?(なかったらすみません)

 しかし私は、悪戯な同調は、双方の思想をどちらかに引き寄せ捻じ曲げることでもあると考えています。つまり同調しないことこそが、尊重でもありうるのだというスタンスです。
 
 私は、いい意味の個人主義というか、自分の中の道理や軸があり、それを言語にしてくれる人が好きです。自分の感情や考えを言語にしてくれるということは、いわゆるシンパシー的な共感や優しさではないので、しばしば『自己主張』と受け止められがちです。ただ私は、人間が他者の気持ちを理解することなど不可能だと思っていて、言語で自分の思考を表明してくれることは、『思いやり』だとも思うんですよね。三浦しをん先生もそう言っていました。そしてさぶろうさんは、私の声を聞いてくれる(読んでもくれる)。だから私はさぶろうさんを、とても優しい人だと思っている、というわけです。

 さぶろうさんと、中学生の時や高校生の時に出会いたかった。出会っていればもう少し、楽しい思春期だった気がするんです。放課後、謎のろくろ回しに付き合ってもらって、ああでもないこうでもないって、リプトンの紅茶パックを片手に持って歩くとか、したかった。

 この日記は、大人のアフタヌーンティーを想定していると言うことですが、私はあるいは思春期にしたかった語りをしてしまうかもしれません。でもまぁそれすら、許してもらえると信じています。

 互いの居心地のよい時間になりますように。畳む

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こんにちは。さぶろうです。普段は絵を描いたり、日記を書いたり、ドイツ語を学んだり、仕事をしたりしている。同人はお休み中だけれど、それでも交流を続けてくださるお友達の皆さんのおかげで、元気にインターネットを楽しんでいる。そんな人だ。



さて、私が沢村さんを交換日記に誘った理由を書こうと思う。
実のところ、「交換日記をやりたいから沢村さんを誘った」のではなく、「沢村さんと交換日記をやりたくて誘った」が正しい。
沢村さんと交換日記をやるのは、それはもう楽しいだろうと思っている。沢村さんと私は、同質なようでかなり異なる人間である。だからこそ、文章を投げ交わしてみたかったのだ。

沢村さんは、スーパーダンガンロンパ2の同人を通じて知り合った字書きである。二次創作を超えた話の面白さがありつつも、原作の延長線上だと感じられるキャラクター描写を貫く沢村さんの作品を、私はとにかく好いている。
沢村さんが表現するキャラクターは、私が二次創作で表現したい要素とかなり近いことも理由だろう。強いシンパシーを感じてきたし、人間としても気が合うと感じている。

同人のことだけではない。
勉強に対してそこそこ得意げな顔ができるあたりも近いと感じているし、なによりお互い作文中毒である。長ったらしい日記をほぼ毎日書いている人間は、自分の周りには沢村さんしかいない。しかも沢村さんは日記に加えて小説作品も書いているらしい。
お互い、日本の平均的な成人がプライベートで作文するざっと300倍ぐらいの文字を書いているだろう。

しかし、こんなに似ているのに、沢村さんは私と異なる人間だと自覚する瞬間がたくさんある。
そもそもライフプランが違う。独身を決した実家暮らしの身と、家庭とお子さんがいる身。生活のあらゆることに対する優先順位が異なる。

日記の組み立ても異なる。私はあることに対する深掘りを進めたり言語化をすることを目的とした日記であり、読み物というよりも思考の書き散らしを主としている(よね?)。
沢村さんの日記はひとつの物語のように、エッセイ的であり、読み物の体をなすことが主軸に置かれているように感じる。

触れてきた文章も大いに異なる。縦書きの明朝体に親しんできた読書家の沢村さんに対し、私はインターネットで横文字ゴシック体を嗜んできた。

そして、細かいことを言えば、中高生時代「かっこいい」に属する女として、その状態を楽しんでいた私に対して、沢村さんはそういった目線にヤキモキした思いを抱いていたようだ(2025/10/2の沢村さんの日記より)

AとBのプランがあったとして、わたしはわたしの合理でAを選ぶし、沢村さんは沢村さんの合理でBを選ぶ。お互いの選択を尊重しているし、お互いの合理に感心し合う。沢村さんと私はたぶん、そんな関係だ。
だから交換日記をやれば、お互いの立てる筋道に感心し合いながら、お互いの選択を尊重できると思ったのだ。

普段の単独の日記とまた違った日記を、たくさん楽しみたい。よければ、沢村さんもみなさんも一緒にお楽しみください。

最後に、この交換日記のルールを説明する。

15日ごろに私が更新し、30日あたりに沢村さんが更新する。期限は2026年12月末まで。

お互い作文中毒者なので、頻度と期限を決めなければ永遠に高速交換が延々と続く羽目になるのだ。一度既読をつけたからには返さねばならないLINEのようになったらとても苦しい。

また、お互いに「交換日記を最後に持っていた人」になりたくない。私から始まり、沢村さんで終わる。そんなまったりルールで行う。

そして、感想は大いにありがたいが、特にフォームは設けない。沢村さん宛てのメッセージがあれば沢村さんのしずかなインターネット宛てに、さぶろうにメッセージがあればさぶろうに送って欲しい。
まあ、きっと、私か沢村さんの日記を読んでいる人が読者なのだから、目につくあたりでてきとうに感想をポストするとよいだろう。勝手に見つけて喜ぶ。

 相手への質問もないこんな日記だが、沢村さんならきっとつないでくれるだろう。何か質問コーナーが欲しければ、設けてください。では、また15日に。

さぶろう畳む
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Subro

沢村とSubroの交換日記です。
ルール:
・毎月15日ごろにSubroが更新
・毎月30日ごろに沢村が更新
・2026年12月まで
・特に更新の連絡はお互いせず、心に余裕のある範囲で書く

⚫︎沢村
趣味で字を書く人
日記:https://sizu.me/sawa0615mura

⚫︎Subro(さぶろう)
趣味で絵を描く人
日記:https://subro36.sub.jp/TegaLog/tegalog.c...

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