交換日記- Exchange Memo Logger -

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沢村

 いつもごちゃごちゃとした日記を書き散らかしている私ですが、やはり交換日記となると身が引き締まる思いです。そこに落ちていたボールを拾って壁にぶん投げ、跳ね返ってきたボールに衝突しその痛みで悶えてばかりの私なので、さぶろうさんに投げてもらったボールをキャッチし、その胸元へ投げ返すことが果たしてできるものなのか、緊張ですね。

 というわけで、お尋ねいただいた「自分の中のコンプライアンスが変わってしまって楽しめなくなってしまったこと」について考えるなどしていました。考え、考え、考えてみたのですが、いまいち思い当たりませんでした。なぜでしょう? 例えば子供が産まれて、子供が酷い目に遭う話がダメになったという話はしばしば聞くのですが、正直あまりその辺りも気にならないのです。何なら可哀想な子供をキャラクターに据えた創作までしています。うーん?
 となりのトトロとか、よく典型例にあげられますよね。サツキちゃんは今でいう「ヤングケアラー」です。大人になって見返すと、サツキの辛さが気になって、なかなか没入できない人も多いのだとか。確かにサツキちゃんは今なら福祉の射程範囲でしょうが、「まぁ、当時はこんなものだったのでしょう」と思いますし、それを凌駕する夢いっぱいの、しかし奇妙な物語性や、映像の美しさがあり、「子供はきちんと社会で守るべきだ」いう私の思想を忘却させてくれます。要は私の現在の倫理観は、作品に敗北しているのです。まだ読めていないのですが、ペケみっつを今読み返してみても、倫理という側面では「おもしろ!」で終わってしまう気がしています。面白さに負ける気がしている。

 作品を読んだ時に感じる心の波立ちは、そういったものをどれだけ大事にしていて、日頃からよく考えているか、ということが現れるポイントだと思います。きっとさぶろうさんは「倫理観」を、普段から大事にしておられるのでしょう。社会の声と自分の心を比べる限り、私の倫理観は(あくまで作品を見るときの観点としては、と言い訳をしておきます)相対的に弱い感がありますね。むむむ。しかし私も、「年と共に楽しめなくなった」ものはいくつかあります。逆に「楽しめる」ようになったものも。技術的なものやロジック的なもの(主に、そこに「必然性」を感じさせてくれるかーー「そういう」ものだと納得させてくれるかどうか)であったり、自分の知識や経験が増えてやっと、「対象年齢」になれたようなものであったり。過去楽しかったものに触れて、同じように楽しめなくなることはもの寂しさがありますが、それは自然なことで、きっとある程度仕方のないものなのでしょう。一方で、「今の私」「これからの私」が楽しめるであろうものも、きっと沢山あります。逆に永久に感性が変わらないというのも、自分の停滞の証左でしかなく、それはそれで辛いものですから、私としてはポジティブに変化を受け入れたいなと思う次第です。

 ちなみに私は「恋人や配偶者がいるにも関わらず『必要なこと』みたいに他と性行為をして、何ならちょっと『エモい』みたいな感じになってる表現」とか、「妊娠や出産や授乳を『エロ』コンテンツみたいに取り扱っている」「なんとなく成り行きで寂しさを紛らわすために性行為をする」みたいなものは苦手で、ささくれ立つとかそういうレベルでもないくらいに苛立ちます。今回これを書くにあたってその辺りについても思いを巡らせてみたのですが、それは別に価値変容ではなく、昔からでした。チャンチャン。でも誰彼構わずセックスしまくる村上春樹の登場人物なんかは、いっそ爽やかで気にならず、結構好きです。春樹の才能に敗北しています。(苦手な方も多いと聞きますが、ルポ本とかすっごく面白いですよ。よかったらこれを機に)

 さて、「恋」についての話題が出て、面白いなと思いました。「人を好きになることができる人は、このように照れてばかりなのだろうか」という問いに私が答えるとするならば、「NO」かな、というところです。

 私は、自分がヘテロロマンティック、デミセクシュアルであると自認しています。(最近性欲薄くね?と思い始めました、他の人の話や世のコンテンツを見るに、ですが)(ピルのせいか?)あまり詳しくないし、何か診断を受けたわけでもないのでご容赦ください。恋愛経験は多くないのですが、それなりに人を好きになったことはあります。少女漫画のテンプレート……あれはあれでやはり一つの「夢」であり「お約束」であって、実際の恋愛とは違うんじゃないかな? と思うのですが、どうなんでしょう。
 うーん、でも私の恋愛に対する考えや、恋愛しているという自認の時に心にある感情が、他の人の「それ」と並べて眺めたときに同質であるとは限らなくて……いや、確実に違うはずですよね。じゃあ別に夢でもないのかな。ある、人もいる。スペクトラム状のものなのかと。

 私自身は「恋」は尊く、一方で醜い感情だと考えています。そのアンバランスさと曖昧さが、人を恋の虜にして、多くの物語が作られているのだろうと思います。人間は抽象化ができる珍しい動物ですが、抽象を抽象のままにしておくと不安定になるものですから、具体的な「物語」に乗せて抽象を理解したがるのかなと。少女漫画のテンプレートはその「一例」で、「恋」の理解に役立つ一種の筋書きで、「わかりやすく受け入れやすい」型、なのでしょう。そのテンプレートが必要な時代や、時期、というのは存在するので、良いのではないかと思います。それがなければ、思春期に多くの人がかち合う感情に相応しい言葉がつけられなくて、どう整理したらいいのかわからなくて、苦しくなる人もきっといる。が、テンプレはテンプレであって、「恋をする人」の現実そのものではなかろう、というのが私の理解です。要はファンタジーです。「家族」というワードに対応するサザエさんという「概念」みたいなものだと解しています。理解に必要な、理想を交えた一般論。こと少女漫画という分野においては、自分の感情を否定しないために、あるいは浄化するための装置でもあるのではないでしょうか。
 が、昔のダイレクトな感情は忘れてしまいましたが、今は私自身も「恋情」や「性欲」を排除して「理性」で人格を見て、その「理性」的側面で人を愛し愛されたいと望んでいますし、そういう物語の方が何となく、納得感があります。創作においても、恋という本能的な感情に流されすぎない「理性的な惹かれ」「理性的な決断」そういうことが表現できたらいいなと考え、実践を目指しています。
 でもそれは、私があまり性欲を人に抱かないからなのでしょうか? いやそもそも、「理性」で判断しているように思っていても、自身にその感情が存在する以上、その裏には結局「恋情」や「性欲」があるのでしょうか? 恋は本当に、感情的なものなのでしょうか? (例えば、「ハイスペックな人を好きになる」という事象の裏には、よい遺伝子を求める本能的な欲求と、それが自分にとってメリットが大きいというかなりの理性的な判断があるように思います)
 
 うーん? わからなくなってきました。風呂敷を広げるだけ広げて、片付けができない。あぁそうです、私は片付けが苦手なんですよね。ううん、うーん、とっ散らかり。本能が先か、感情が先か、理性が先か、全てないまぜ? 人による?

 このまま行くとデカルトに到達してしまう気がするので、一旦やめておきましょう。ちょっと関係ないのですが、さぶろうさんに聞いてみたいことがあったので、聞いてみて良いですか? 最近『文学部に行っていたら』『そうでなくてももっと勉強しておけば』『せめて文芸サークルに入っていれば』『本を、もっと……』などと思うシーンがとても多いです。年の瀬にありがちな年相応の後悔だと思うのですが、さぶろうさんはそんなことありますか?
 もし大学に戻れたら、何を学んでどう過ごしたいですか? そしてそこで私に出会ったら、友達になってくれますか?畳む

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