2024年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
ちまちまと空き時間に検定の参考書読んで勉強を進めつつ、寄稿もやっている。
なにかしらのやりたいことに余暇の時間を突っ込んでプライベートは全て「予定あり」に変貌させるあたり、原稿やっている時と挙動が変わらない。
一方で原稿時から変わったこととすれば、Twitterの見る頻度。アプリ上ではにじさんじのアカウントのみログインしているので、参照頻度減りました(異常ヲタク→常人のヲタク 程度の変化)
やりたいこと多すぎる。別に人生の役に立てようとも思わない、自分のためだけの黙々とした作業が好きすぎる。Wish List作ったら余裕で100超えるし、うち90はインドアな気がする。というか検定とか勉強系で10個埋まると思う。一度作ってみようかな〜!
なにかしらのやりたいことに余暇の時間を突っ込んでプライベートは全て「予定あり」に変貌させるあたり、原稿やっている時と挙動が変わらない。
一方で原稿時から変わったこととすれば、Twitterの見る頻度。アプリ上ではにじさんじのアカウントのみログインしているので、参照頻度減りました(異常ヲタク→常人のヲタク 程度の変化)
やりたいこと多すぎる。別に人生の役に立てようとも思わない、自分のためだけの黙々とした作業が好きすぎる。Wish List作ったら余裕で100超えるし、うち90はインドアな気がする。というか検定とか勉強系で10個埋まると思う。一度作ってみようかな〜!
劇団四季「ウィキッド」観ました。
歌もお話も舞台美術も本当に良くて、これまで見たミュージカルで一番良かった。
ミュージカルや歌劇ってとにかく恋が全てにおいて優でありパワーなイメージがあったのだけれど、ウィキッドの物語には恋以上の他者愛、自己愛、そして周りの状況を踏まえた分別が描かれていてとてもよかった。
物語において好む部分は共感する部分であることがとても多い。恋もいいかもしれないけれど、私は愛と信頼と現実と選択を愛している。だからこそ、どうしようもない事実の前には奇跡の起きない結末が大好きで、グリンダとエルファバが手を取り合うことは一生なく、しかしそこには硬い信頼があるという根底が感じられたのがすごく良かった。
登場人物もみんな魅力的だった。承認欲求が全てを上回り、他者から承認を得るような振る舞いをするグリンダは、途中の嫌な態度も含めて一貫していてチャーミングで愛らしかった。ウィキッドの無敵の人という振る舞いも絶望的でよかった。なにより第一幕であんなに優しく姉を慮っていた妹が、自分のことを(は)愛してくれた父親を亡くし、ボックからの愛も得られず、姉も救ってくれず、圧政を引いてマンチキンの人々からの支持も得られなかった経験を得て、ヒステリーな女に変わっていた絶望感が気持ちよかった。ボックを解放するといった口で、ボックを話さないと呪詛をし、自分の業を姉のせいにする記憶の改竄を行う様は正しく精神病に他ならず、エメラルドシティへ送り出してくれた日の優しい妹と対比されて悲しい。姉のエルファバはそんな妹であっても愛している優しさが描写され、それが「悪い魔女」という称号と決定的に食い違っていてる。悪に振る舞おうにも、周りのように自己の欲に生きようにも、エルファバの欲には他者の愛があって、だからこそ優しさから免れない。
エルフィを演じられていた小林さんがものすごく歌がうまくて、歌で泣いてしまいました。舞台装飾もものすごく綺麗で、緑色が好きになってしまいました。もう一回観たい。
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歌もお話も舞台美術も本当に良くて、これまで見たミュージカルで一番良かった。
ミュージカルや歌劇ってとにかく恋が全てにおいて優でありパワーなイメージがあったのだけれど、ウィキッドの物語には恋以上の他者愛、自己愛、そして周りの状況を踏まえた分別が描かれていてとてもよかった。
物語において好む部分は共感する部分であることがとても多い。恋もいいかもしれないけれど、私は愛と信頼と現実と選択を愛している。だからこそ、どうしようもない事実の前には奇跡の起きない結末が大好きで、グリンダとエルファバが手を取り合うことは一生なく、しかしそこには硬い信頼があるという根底が感じられたのがすごく良かった。
登場人物もみんな魅力的だった。承認欲求が全てを上回り、他者から承認を得るような振る舞いをするグリンダは、途中の嫌な態度も含めて一貫していてチャーミングで愛らしかった。ウィキッドの無敵の人という振る舞いも絶望的でよかった。なにより第一幕であんなに優しく姉を慮っていた妹が、自分のことを(は)愛してくれた父親を亡くし、ボックからの愛も得られず、姉も救ってくれず、圧政を引いてマンチキンの人々からの支持も得られなかった経験を得て、ヒステリーな女に変わっていた絶望感が気持ちよかった。ボックを解放するといった口で、ボックを話さないと呪詛をし、自分の業を姉のせいにする記憶の改竄を行う様は正しく精神病に他ならず、エメラルドシティへ送り出してくれた日の優しい妹と対比されて悲しい。姉のエルファバはそんな妹であっても愛している優しさが描写され、それが「悪い魔女」という称号と決定的に食い違っていてる。悪に振る舞おうにも、周りのように自己の欲に生きようにも、エルファバの欲には他者の愛があって、だからこそ優しさから免れない。
エルフィを演じられていた小林さんがものすごく歌がうまくて、歌で泣いてしまいました。舞台装飾もものすごく綺麗で、緑色が好きになってしまいました。もう一回観たい。
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2024年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
現在のところの暗記の特徴
・速度は思考>音声>書取りの順
・テキストの「ここらへんにあった」情報もなんとなく頭にチラつくため、新たな図を作るよりもテキスト・場所を理解した方がいい
→仮説として、指差し確認やテキスト内記載を徹底した方がいい
・関連/芋蔓式は頭の中でもできるので、書取り不要
→Newmoricの関連情報にWikipediaから引用するのは関連が増えてよい。わからなかったらググって親しみわかせる
・カタカナの人名をフルで覚えるのは相当苦手で無理であるが、ファーストネームかミドルネームのいずれかを覚えていれば選択式ならイケるので、完璧に覚えなくていい(Newmoricでも「わかった」に入れていい
・速度は思考>音声>書取りの順
・テキストの「ここらへんにあった」情報もなんとなく頭にチラつくため、新たな図を作るよりもテキスト・場所を理解した方がいい
→仮説として、指差し確認やテキスト内記載を徹底した方がいい
・関連/芋蔓式は頭の中でもできるので、書取り不要
→Newmoricの関連情報にWikipediaから引用するのは関連が増えてよい。わからなかったらググって親しみわかせる
・カタカナの人名をフルで覚えるのは相当苦手で無理であるが、ファーストネームかミドルネームのいずれかを覚えていれば選択式ならイケるので、完璧に覚えなくていい(Newmoricでも「わかった」に入れていい
「マリア様がみてる」の原作、短編は残ってるけれど、最終巻(ハローグッバイ)まで読みました。小学校の時にリリアン女学園に清らかな心を思い出しつつ、女子校に通った日々を重ねて、そしてにじんだ性欲を実感する、アルバムめくるような読書体験でした。
祐巳という人間の、精神鍛錬の末自他境界がはっきりしつつも愛とコミカルに溢れた姿は大人の今だからこそ素直に尊敬できます。そして「大人びた」祥子がそんな祐巳を鏡にしながらゆっくりと優しさをまとっていく様が、人間らしくて愛しかったです。色々な愛の表現が折り重なっていて、今もう一度読み返せてよかったなと思います。
聖さまにやっぱり、憧れるけど今読み返すと大学生のわりに振る舞いが子供で、聖さまはもう年上ではないんだなという実感もあります。でも、あれも聖さまの大人になりかただし、心の区切り方なんだなと思います。聖志摩の伏せられた愛しあい方が本当に好きです。
以下、ハローグッバイの感想
有馬菜々さんのロザリオ授受、本当に素敵なワンシーンだった。
すぐに描写は去ってしまったけど、志摩子が聖に1年ぶりに会えてよかった〜!!!
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祐巳という人間の、精神鍛錬の末自他境界がはっきりしつつも愛とコミカルに溢れた姿は大人の今だからこそ素直に尊敬できます。そして「大人びた」祥子がそんな祐巳を鏡にしながらゆっくりと優しさをまとっていく様が、人間らしくて愛しかったです。色々な愛の表現が折り重なっていて、今もう一度読み返せてよかったなと思います。
聖さまにやっぱり、憧れるけど今読み返すと大学生のわりに振る舞いが子供で、聖さまはもう年上ではないんだなという実感もあります。でも、あれも聖さまの大人になりかただし、心の区切り方なんだなと思います。聖志摩の伏せられた愛しあい方が本当に好きです。
以下、ハローグッバイの感想
有馬菜々さんのロザリオ授受、本当に素敵なワンシーンだった。
すぐに描写は去ってしまったけど、志摩子が聖に1年ぶりに会えてよかった〜!!!
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インターネットの縁を気に入っている。
インターネットの薄氷の縁がとても好き。インターネットによってできた縁を疎かにしているとかではない。なんなら、インターネットで得た友人が、友人上からNo.1・2・3だ。
インターネットは現実に利害が生まれにくいからこそ、どちらかが嫌になったらお互い離れましょうね、ができてとても豊かだと思う。ほぐれやすいのに仲を続けられるということだから。
年1で旅行にいくようになった友人も、議論レベルと経済価値観が近すぎてなんでも話せる同業の友人も、言葉を交わすことはあまりない15年来の相互も、ほぐれやすさがありながら縁を続けてこれたので、ひたすらこの縁が愛しい。
それだけでなく、ほぐれてしまった縁も好きだ。「いい思い出だったな」と思える、もう姿形も見えない縁も良い。ジャンルの切れ目が縁の切れ目になっている場合も、お互い心地よいひとときだけをちゃんと過ごせたということだから。
私が突き放した縁も、向こうが突き放した縁も、ちゃんと離れられてよかったねと思える。ほぐれやすさが一種の信頼なのだ。
このほぐれやすい縁が大好きなので、ジャンルを離れても仲良くしてねなどと誓わないし、明日の約束を求めないけど、繋がっている人たちに対して緩くほどけやすい形の愛はあるよ。だからこそ鎖で結びつけたくないということを大事にしたい。
書いておいてなんだが、新刊のアンチテーゼすぎる。
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インターネットの薄氷の縁がとても好き。インターネットによってできた縁を疎かにしているとかではない。なんなら、インターネットで得た友人が、友人上からNo.1・2・3だ。
インターネットは現実に利害が生まれにくいからこそ、どちらかが嫌になったらお互い離れましょうね、ができてとても豊かだと思う。ほぐれやすいのに仲を続けられるということだから。
年1で旅行にいくようになった友人も、議論レベルと経済価値観が近すぎてなんでも話せる同業の友人も、言葉を交わすことはあまりない15年来の相互も、ほぐれやすさがありながら縁を続けてこれたので、ひたすらこの縁が愛しい。
それだけでなく、ほぐれてしまった縁も好きだ。「いい思い出だったな」と思える、もう姿形も見えない縁も良い。ジャンルの切れ目が縁の切れ目になっている場合も、お互い心地よいひとときだけをちゃんと過ごせたということだから。
私が突き放した縁も、向こうが突き放した縁も、ちゃんと離れられてよかったねと思える。ほぐれやすさが一種の信頼なのだ。
このほぐれやすい縁が大好きなので、ジャンルを離れても仲良くしてねなどと誓わないし、明日の約束を求めないけど、繋がっている人たちに対して緩くほどけやすい形の愛はあるよ。だからこそ鎖で結びつけたくないということを大事にしたい。
書いておいてなんだが、新刊のアンチテーゼすぎる。
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聖志摩ってシてそうでエロいなの話(内容がわたしの性欲まみれで最悪です)
聖志摩のセフレ感がエロい。聖志摩は当然セフレじゃないのだけれど、セフレのような関係にも関わらずセックスしているからこその正妻の余裕を見せる志摩子って感じがして、エロい。
そもそも聖さまが志摩子に目をつけたのも、志摩子の栞に似た雰囲気に一目惚れしているからだし。蓉子が「似ている」と言った対象を栞と勘違いして力一杯否定しているあたり、栞に雰囲気が似ていると思っていたんだろう。聖さま、シスターになりたい女が性癖すぎる🥲わたしもそういう色素の薄い儚い女性が好きだよ。
でろでろに依存していた栞と二度と会えなくなるという絶望の再演になったら心が壊れちゃうので、志摩子とは距離をとるのだけど、蓉子に「志摩子は聖に似ている」と言われることをきっかけに近寄って行って志摩子にロザリオを渡す。自分が「本命」になり得ない祐巳とは異なり、お姉さまに言われた通り、本当に大切だから距離をとるようにしている。
でも聖さまって理性に逆らわない様相があるので、性欲爆発したらふつうに志摩子に手を出しそうなので一夜〜三夜ぐらい共にしてそう。というか志摩子って聖さまがセックス誘ったらなしくずしでしょう。いくら志摩子も我が強いといえど、聖さまにわりと骨抜きだし。
一夜ともにしても聖さまの態度って変わらなそうだし、志摩子もその変わらない態度をわかっていそう。この姉妹、表に見せない/口に出さない依存と理解と繋がりがあり、その陰っぽい感じが淫靡だよ〜。表に出ている様相が明らかでないからこそ、ヤってそうでエロい、聖志摩。
聖祐巳はそもそも祥子のことを祐巳が一番愛しており、それを聖さまもわかっているのでセックスしてなさそう。別に祥子と祐巳の間が恋愛関係でなくても、祐巳にしてみれば浮気だろうし。
祐巳はからかいがいがあるからという他に、祥子がいるので自分は本命にならなくてすむという安心感があるからこそ、聖さまは祐巳にたいしてあのベタベタ距離だと思うんだよね。だからこそWillで祐巳から口元にキスした時の衝撃が強いし、意外すぎて聖さまドキドキしただろうな。白薔薇系譜の激モテメロ女が聖だとしたら、赤薔薇系譜の激モテメロ女って祐巳だし………メロメロ女対決すぎるね
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聖志摩のセフレ感がエロい。聖志摩は当然セフレじゃないのだけれど、セフレのような関係にも関わらずセックスしているからこその正妻の余裕を見せる志摩子って感じがして、エロい。
そもそも聖さまが志摩子に目をつけたのも、志摩子の栞に似た雰囲気に一目惚れしているからだし。蓉子が「似ている」と言った対象を栞と勘違いして力一杯否定しているあたり、栞に雰囲気が似ていると思っていたんだろう。聖さま、シスターになりたい女が性癖すぎる🥲わたしもそういう色素の薄い儚い女性が好きだよ。
でろでろに依存していた栞と二度と会えなくなるという絶望の再演になったら心が壊れちゃうので、志摩子とは距離をとるのだけど、蓉子に「志摩子は聖に似ている」と言われることをきっかけに近寄って行って志摩子にロザリオを渡す。自分が「本命」になり得ない祐巳とは異なり、お姉さまに言われた通り、本当に大切だから距離をとるようにしている。
でも聖さまって理性に逆らわない様相があるので、性欲爆発したらふつうに志摩子に手を出しそうなので一夜〜三夜ぐらい共にしてそう。というか志摩子って聖さまがセックス誘ったらなしくずしでしょう。いくら志摩子も我が強いといえど、聖さまにわりと骨抜きだし。
一夜ともにしても聖さまの態度って変わらなそうだし、志摩子もその変わらない態度をわかっていそう。この姉妹、表に見せない/口に出さない依存と理解と繋がりがあり、その陰っぽい感じが淫靡だよ〜。表に出ている様相が明らかでないからこそ、ヤってそうでエロい、聖志摩。
聖祐巳はそもそも祥子のことを祐巳が一番愛しており、それを聖さまもわかっているのでセックスしてなさそう。別に祥子と祐巳の間が恋愛関係でなくても、祐巳にしてみれば浮気だろうし。
祐巳はからかいがいがあるからという他に、祥子がいるので自分は本命にならなくてすむという安心感があるからこそ、聖さまは祐巳にたいしてあのベタベタ距離だと思うんだよね。だからこそWillで祐巳から口元にキスした時の衝撃が強いし、意外すぎて聖さまドキドキしただろうな。白薔薇系譜の激モテメロ女が聖だとしたら、赤薔薇系譜の激モテメロ女って祐巳だし………メロメロ女対決すぎるね
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マリア様が見てるに再燃しています。
小学6年生の時、姉の本棚から盗み見たマーガレット版の「マリアさまが見てる」から世界に引き込まれ、そのまま原作小説を読みました。
ロザリオを用いた姉妹制度にものすごく憧れて、ロザリオを欲したものです。特に、志摩子さまが大好きで、あの頃から綺麗で可愛くて色素が薄くてふわふわで優雅な女性が好きだったなと今振り返れます。
今回アニメ版を初めて見ました。本当にあの頃とイメージ違わない声と、そして聖さまのキャラデザの良さに心躍り、なにより瞳子の揺れ動きが気になりすぎて、「仮面のアクトレス」から最後まで小説で読もうと思っています。
小学校の私は、「友達が受験するから」という邪な動機で中学受験を志しました。こんなふざけた動機で高い学費を払ってくれた両親には頭が上がりません。そんな動機なので、後に入学することになる志望校のことを最初は名前しか知りませんでした。受験をすると決めた後、目指している志望校の始業の挨拶が「ごきげんよう」で、制服がセーラー服であることを知った時、本当にあこがれのマリア様がみてるの世界のように感じてとても嬉しく、志望校が本当に志望校になった契機だったなと覚えています。
まあ実際、女子校は男性がいない分、よく言えばジェンダー規範にとらわれない、悪く言えば野生のように育つので、「ごきげんよう」も「ぇんょ〜」に変わるようなはしたない人間になったわけだけれど。女子校に入って、演劇部に入ったから今の自分があると自負していますが。
狛日で同人活動を始めてから4年間、アニメ見たり漫画読んだりもしていたけれど、ここ4年原稿が余暇のメインで、他はサブ的な楽しみをしていました。平日も、休日も、空き時間は基本的に原稿の日々でした。
9月の原稿が終わり、次はあえてイベントをスキップして7月参加にしようと思っています。久々に原稿を焦る必要がない状態です。なんだか所在なく、そしてやりたいことをできるという気持ちで楽しみです。まだ寄稿があるけど。
ひとつ、やりたいこととして、懐かしさと、面白さを楽しみつつ「マリア様がみてる」を最後まで完走しようと思います。
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小学6年生の時、姉の本棚から盗み見たマーガレット版の「マリアさまが見てる」から世界に引き込まれ、そのまま原作小説を読みました。
ロザリオを用いた姉妹制度にものすごく憧れて、ロザリオを欲したものです。特に、志摩子さまが大好きで、あの頃から綺麗で可愛くて色素が薄くてふわふわで優雅な女性が好きだったなと今振り返れます。
今回アニメ版を初めて見ました。本当にあの頃とイメージ違わない声と、そして聖さまのキャラデザの良さに心躍り、なにより瞳子の揺れ動きが気になりすぎて、「仮面のアクトレス」から最後まで小説で読もうと思っています。
小学校の私は、「友達が受験するから」という邪な動機で中学受験を志しました。こんなふざけた動機で高い学費を払ってくれた両親には頭が上がりません。そんな動機なので、後に入学することになる志望校のことを最初は名前しか知りませんでした。受験をすると決めた後、目指している志望校の始業の挨拶が「ごきげんよう」で、制服がセーラー服であることを知った時、本当にあこがれのマリア様がみてるの世界のように感じてとても嬉しく、志望校が本当に志望校になった契機だったなと覚えています。
まあ実際、女子校は男性がいない分、よく言えばジェンダー規範にとらわれない、悪く言えば野生のように育つので、「ごきげんよう」も「ぇんょ〜」に変わるようなはしたない人間になったわけだけれど。女子校に入って、演劇部に入ったから今の自分があると自負していますが。
狛日で同人活動を始めてから4年間、アニメ見たり漫画読んだりもしていたけれど、ここ4年原稿が余暇のメインで、他はサブ的な楽しみをしていました。平日も、休日も、空き時間は基本的に原稿の日々でした。
9月の原稿が終わり、次はあえてイベントをスキップして7月参加にしようと思っています。久々に原稿を焦る必要がない状態です。なんだか所在なく、そしてやりたいことをできるという気持ちで楽しみです。まだ寄稿があるけど。
ひとつ、やりたいこととして、懐かしさと、面白さを楽しみつつ「マリア様がみてる」を最後まで完走しようと思います。
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プロフィールから「左右固定」表記を外している
実は結構ゴリゴリの左右固定で、描くのだけでなく見るのも左右固定である。
一時期はプロフィール左右固定明記の狛日しか見ていなかった。プロフィールにABA表記があったり非固定表記があったりすると、ミュート/リムーブしている。
この有様なので、左右固定表明を安心材料にする気持ちはすごくわかるし、わたしも安心材料として見ている。
ただ、左右固定のうち、特に糖度が高いイチャラブが好きな人が私のことフォローすると、糖度避け要素の高いわたしの言動に対して嫌な思いをすることが多いのでプロフィールから除いている。
狛日なら全て読めるものの、左右固定者の中では好みが少数派である。
左右固定というより、狛→日固定なことが転じて左右固定である。矢印が逆になるような描写であれば、狛日だろうとあまり興味がない。狛の支配欲・マウント欲を含む欲を受け止められる男、つまりセックスの際に掘られることに同意してくれるチャンスがある男として日向を見ている。そしてプライドが高くて欲望(ここでは日向の支配とマウント)を完遂する知的な男・狛枝が好きだから、左右固定なのだ。
だからこそ、狛日であろうが「性愛・恋愛に絞った矢印において」狛→←日も狛←日もあまり興味がない。その状況でパートナーとなるに至る日向から狛枝への感情や関係性の変化(拵え)は大好き。
苦手ではなく興味がない、逆もリバも興味がない別物として見ている…という感じなので、「地雷」というほど過激ではない。興味あるものの中に全く興味ないものが混ざっているから自衛しているという感じ。
一方、難しいのが私のようなやつの好みは「左右不定」に多い。左右は「どうでもいい」、つまり、「どっちでも好き」ではなくそもそもセックスの解釈が描写において不要なのでどうでもいい…という人が一番好みの狛日を描いてくださる。
しかしこの世に「左右不定」の表現は流行っておらず、「左右非固定」と表現されるのだ。しかし、現状「左右非固定」の世界は「どっちでも好き」の人の方が俄然多い。
「どっちも好き」の中でも、好きな男の受け描写がとにかく好きな人、まあいわゆる雑食の方はふたりの矢印なんてどっちでもいいし、その上「性自認の否定」や「過激な表現」を用いる人が多いので、興味がないどころか苦手まで感じてしまう場合がある。難儀だ。
https://subro36.sub.jp/wordpress/komahi_...
最近プロフィールに「左右固定」と描いてなくても、「狛日」というラベリングがされた作品を見るようになったのは、この世から「左右不定」というドンピシャ好みを探すための前進である。
しかし、私が左右不定を名乗れるのかというと、完全に左右固定なので、救えない。
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実は結構ゴリゴリの左右固定で、描くのだけでなく見るのも左右固定である。
一時期はプロフィール左右固定明記の狛日しか見ていなかった。プロフィールにABA表記があったり非固定表記があったりすると、ミュート/リムーブしている。
この有様なので、左右固定表明を安心材料にする気持ちはすごくわかるし、わたしも安心材料として見ている。
ただ、左右固定のうち、特に糖度が高いイチャラブが好きな人が私のことフォローすると、糖度避け要素の高いわたしの言動に対して嫌な思いをすることが多いのでプロフィールから除いている。
狛日なら全て読めるものの、左右固定者の中では好みが少数派である。
左右固定というより、狛→日固定なことが転じて左右固定である。矢印が逆になるような描写であれば、狛日だろうとあまり興味がない。狛の支配欲・マウント欲を含む欲を受け止められる男、つまりセックスの際に掘られることに同意してくれるチャンスがある男として日向を見ている。そしてプライドが高くて欲望(ここでは日向の支配とマウント)を完遂する知的な男・狛枝が好きだから、左右固定なのだ。
だからこそ、狛日であろうが「性愛・恋愛に絞った矢印において」狛→←日も狛←日もあまり興味がない。その状況でパートナーとなるに至る日向から狛枝への感情や関係性の変化(拵え)は大好き。
苦手ではなく興味がない、逆もリバも興味がない別物として見ている…という感じなので、「地雷」というほど過激ではない。興味あるものの中に全く興味ないものが混ざっているから自衛しているという感じ。
一方、難しいのが私のようなやつの好みは「左右不定」に多い。左右は「どうでもいい」、つまり、「どっちでも好き」ではなくそもそもセックスの解釈が描写において不要なのでどうでもいい…という人が一番好みの狛日を描いてくださる。
しかしこの世に「左右不定」の表現は流行っておらず、「左右非固定」と表現されるのだ。しかし、現状「左右非固定」の世界は「どっちでも好き」の人の方が俄然多い。
「どっちも好き」の中でも、好きな男の受け描写がとにかく好きな人、まあいわゆる雑食の方はふたりの矢印なんてどっちでもいいし、その上「性自認の否定」や「過激な表現」を用いる人が多いので、興味がないどころか苦手まで感じてしまう場合がある。難儀だ。
https://subro36.sub.jp/wordpress/komahi_...
最近プロフィールに「左右固定」と描いてなくても、「狛日」というラベリングがされた作品を見るようになったのは、この世から「左右不定」というドンピシャ好みを探すための前進である。
しかし、私が左右不定を名乗れるのかというと、完全に左右固定なので、救えない。
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燕は戻ってこない(ちょっとだけラストマイルの話もしている)
貧困女性への搾取描写を描いていることに息苦しさの伴う尊敬があった。金の価値があまりに高く、金で身体と精神の売買を正当化できる異常さ。
女の方が割合の多い貧困という苦境からの一発逆転が、自分の命と心を金にすることによって成し得てしまう現実が苦しい。
ラストマイルでも思ったが、この世界で便利に生きているとどうしてもどこかに貧困者の搾取が存在して、自分が加担している息苦しさがある。男女関わらず。その現実を知ってなお、利便性を手放せない自分を、自分は心から非難できない。きっと今も、誰かの何かを踏み躙っているのだろうが、実感が遠く、今の生活をやめられない。そういった搾取という罪の自覚をありありと描いて意見を表明するのはすごいことで、「燕は戻ってこない」の作家・ドラマに携わった人たちを尊敬する。
登場人物全員エゴイスティックで批難すべきところはあるけれど、誰しもがエゴイスティックであるから誰も評価などできないというところがとてもよかった。
特に、愚かな行為をするリキの描き方は圧巻だ。代理母の契約を破って酒を煽る、排卵日前に他の男とセックスをするのははっきりいって”呆れる”行為だ。しかしリキの行動もなんとなくわかる。自分がモノとして管理されている中、自分は人間だと主張する抵抗であり、自分をモノとして扱う富裕者に対する対抗だ。そして自らリスクを上げても、欲しい結果を得られるはずの幸運な者だと信じたかった願いだとも思う。そういう、一時的な興奮を優先したエゴにとても惹かれた。最後にリキは、双子のうちの”女”であるぐらだけを連れ去る。リキは女という地獄をいやというほど味わったにも関わらず、「草桶家で幸せに生きる」を男であるぐりに与えて女のぐらを貧困に道連れにした。リキの短期的な景色しか見えていないエゴを表しており素晴らしい。貧困層は長期的に得な選択を取れない。10個まとめて1000円は買えず、単価120円の1個しか買えない。目の前の生活を生きていくしかないし、目の前の楽に思考が持っていかれてしまう。裕福な他人から見たら浅はかかもしれないけど、そうしてリキも生きてきたのだ。きっとぐらを連れた先も、リキが生きてきた道からは逃れられないと思うと、どうしようもなく悲しい。
また、物語の中で優しく理知的に見えた悠子が、終始うまく倫理観のない掌返しをするもさまもよかった。流産経験の恐怖から誰の子かわからない子を堕胎するなといい、夫が代理母を人扱いしない様に嫌気がさして離婚を申し出ながら、子を見た瞬間に「ほしい」という。同じエゴなのに、こうもリキと悠子で見え方が違って良いものか。
私は、フィクションにおいて人間が行なった選択が、選択通りの帰結を呼ぶ話がとても好きだ。1に1を足すことを選んだら、2になる。奇跡が起きて3になることはない、そういう話が好きだ。
しかし、現実では意思をもって選択した結果、不都合な事実が待っていても「お前が選んだことだから責任を取れ」などと言えないと考えさせられた。貧困によって長期的な眺望を奪われたリキの行動を「あなたが選んだことだから」で正当化できるわけがない。選択によってもたらされた現実は変わらないけれど、不都合な現実を目の当たりにした時に、選択した人を非難するのでは無く不都合な現実が生まれてしまう仕組みを非難したいし、よりよい未来を選べる方法を考えたい。
畳む
貧困女性への搾取描写を描いていることに息苦しさの伴う尊敬があった。金の価値があまりに高く、金で身体と精神の売買を正当化できる異常さ。
女の方が割合の多い貧困という苦境からの一発逆転が、自分の命と心を金にすることによって成し得てしまう現実が苦しい。
ラストマイルでも思ったが、この世界で便利に生きているとどうしてもどこかに貧困者の搾取が存在して、自分が加担している息苦しさがある。男女関わらず。その現実を知ってなお、利便性を手放せない自分を、自分は心から非難できない。きっと今も、誰かの何かを踏み躙っているのだろうが、実感が遠く、今の生活をやめられない。そういった搾取という罪の自覚をありありと描いて意見を表明するのはすごいことで、「燕は戻ってこない」の作家・ドラマに携わった人たちを尊敬する。
登場人物全員エゴイスティックで批難すべきところはあるけれど、誰しもがエゴイスティックであるから誰も評価などできないというところがとてもよかった。
特に、愚かな行為をするリキの描き方は圧巻だ。代理母の契約を破って酒を煽る、排卵日前に他の男とセックスをするのははっきりいって”呆れる”行為だ。しかしリキの行動もなんとなくわかる。自分がモノとして管理されている中、自分は人間だと主張する抵抗であり、自分をモノとして扱う富裕者に対する対抗だ。そして自らリスクを上げても、欲しい結果を得られるはずの幸運な者だと信じたかった願いだとも思う。そういう、一時的な興奮を優先したエゴにとても惹かれた。最後にリキは、双子のうちの”女”であるぐらだけを連れ去る。リキは女という地獄をいやというほど味わったにも関わらず、「草桶家で幸せに生きる」を男であるぐりに与えて女のぐらを貧困に道連れにした。リキの短期的な景色しか見えていないエゴを表しており素晴らしい。貧困層は長期的に得な選択を取れない。10個まとめて1000円は買えず、単価120円の1個しか買えない。目の前の生活を生きていくしかないし、目の前の楽に思考が持っていかれてしまう。裕福な他人から見たら浅はかかもしれないけど、そうしてリキも生きてきたのだ。きっとぐらを連れた先も、リキが生きてきた道からは逃れられないと思うと、どうしようもなく悲しい。
また、物語の中で優しく理知的に見えた悠子が、終始うまく倫理観のない掌返しをするもさまもよかった。流産経験の恐怖から誰の子かわからない子を堕胎するなといい、夫が代理母を人扱いしない様に嫌気がさして離婚を申し出ながら、子を見た瞬間に「ほしい」という。同じエゴなのに、こうもリキと悠子で見え方が違って良いものか。
私は、フィクションにおいて人間が行なった選択が、選択通りの帰結を呼ぶ話がとても好きだ。1に1を足すことを選んだら、2になる。奇跡が起きて3になることはない、そういう話が好きだ。
しかし、現実では意思をもって選択した結果、不都合な事実が待っていても「お前が選んだことだから責任を取れ」などと言えないと考えさせられた。貧困によって長期的な眺望を奪われたリキの行動を「あなたが選んだことだから」で正当化できるわけがない。選択によってもたらされた現実は変わらないけれど、不都合な現実を目の当たりにした時に、選択した人を非難するのでは無く不都合な現実が生まれてしまう仕組みを非難したいし、よりよい未来を選べる方法を考えたい。
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2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
岡田将生とわたしが逃れられない外見主義(虎に翼、ラストマイルネタバレ含む)
岡田将生さんが好きだ。岡田将生さんほど、非常に整った外見であるものの、性格に欠陥があるせい(お陰)で通常の人間と同程度に扱われる役柄が合う人はいない。
例えば、「星の子」における先生、「大豆田とわ子と3人の元夫」における慎森のように。顔はいいが、性格に難があるから通常の生活を続けてられるんだろうなというキャラクターの性質を瞬時にわからせられる役者はそういない。
今ルッキズムは非難の倫理観として語られるし、わたしもやはり正常でありたいので人を外見で判断しないように心がけている。
しかし岡田将生さんを見ると自分の中のルッキズムがメキメキ生えてくる。振り返ると、あーあ、と、自分にがっかりする。
「虎に翼」の星航一として岡田将生さんは出演されている。もともと「虎に翼」の話が大好きで、知り合いの誰一人として語る人がいない中で「虎に翼」がいかに面白く素晴らしい脚本であるかろくろを回していた。しかし、星航一(演:岡田将生)が出てからは、岡田将生の顔が良すぎる…とテレビの前できゃあきゃあするばかり。おそらく私に限ったことではなく、虎に翼 タグを眺めていても、「岡田将生の顔の良さに頼る星航一」の感想がよく出てくる。最近の星航一は岡田将生さんの顔の良さでも補えないようだが。
まあ、つまるところ家庭を顧みない男(おじさん)星航一に岡田将生さんの顔のバフがかかることで話のノイズになっているのだ。登場週付近の「虎に翼」を見ていると、ルッキズムを捨てられない自分に気づいてしまう。
「ラストマイル」にて岡田将生さんが出演している。彼はなんてことない若者で、物語の中でエレナ(演:満島ひかり)の働く背中を見てちょっと頑張る役という感じで、話の中でビビッドな成長を遂げるわけではない。あえて逆説を使うが、しかし、顔が日常ではあり得ないほど美しい。なんというか、岡田将生の演技ってこんなに生を得てなかったっけ?となった。普通の、労働環境ににぶい青年に見えない。この役、もっと凡な演技が上手い役者立てたほうが良かったのでは?
窪田正孝さんはもうMIUで六郎として出ているから使えないけど。なら風間俊介さんとかどうですか。濱田岳さんとか。松下洸平さんも頭をよぎったけれどMIUで捕まる殺人犯でしたね…。今上げた役者は顔がどうではなく、私は彼らの演技が本当に好きなのだ。顔がノイズになることがない。ルッキズムを発揮してしまう役者、本当に岡田将生だけなんだ。
でも、演技を懸命にしているのに美しすぎる顔が演技のノイズになって、何をしても評価が顔に終着してしまう自分の考えが本当にキツい、彼は役者なのに。「星の子」の先生、本当に嫌なやつでよかったと思うのに、「ラストマイル」の演技は役があってなかったなと思うのだ、演技力は今の方が磨かれているはずなのに。
岡田将生さんを外見抜きで、演技で、作品で評価できるようになるまでルッキズムが潰えたとは言えない。わたしはルッキズムが憎らしいのに。あーあ。となる。
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岡田将生さんが好きだ。岡田将生さんほど、非常に整った外見であるものの、性格に欠陥があるせい(お陰)で通常の人間と同程度に扱われる役柄が合う人はいない。
例えば、「星の子」における先生、「大豆田とわ子と3人の元夫」における慎森のように。顔はいいが、性格に難があるから通常の生活を続けてられるんだろうなというキャラクターの性質を瞬時にわからせられる役者はそういない。
今ルッキズムは非難の倫理観として語られるし、わたしもやはり正常でありたいので人を外見で判断しないように心がけている。
しかし岡田将生さんを見ると自分の中のルッキズムがメキメキ生えてくる。振り返ると、あーあ、と、自分にがっかりする。
「虎に翼」の星航一として岡田将生さんは出演されている。もともと「虎に翼」の話が大好きで、知り合いの誰一人として語る人がいない中で「虎に翼」がいかに面白く素晴らしい脚本であるかろくろを回していた。しかし、星航一(演:岡田将生)が出てからは、岡田将生の顔が良すぎる…とテレビの前できゃあきゃあするばかり。おそらく私に限ったことではなく、虎に翼 タグを眺めていても、「岡田将生の顔の良さに頼る星航一」の感想がよく出てくる。最近の星航一は岡田将生さんの顔の良さでも補えないようだが。
まあ、つまるところ家庭を顧みない男(おじさん)星航一に岡田将生さんの顔のバフがかかることで話のノイズになっているのだ。登場週付近の「虎に翼」を見ていると、ルッキズムを捨てられない自分に気づいてしまう。
「ラストマイル」にて岡田将生さんが出演している。彼はなんてことない若者で、物語の中でエレナ(演:満島ひかり)の働く背中を見てちょっと頑張る役という感じで、話の中でビビッドな成長を遂げるわけではない。あえて逆説を使うが、しかし、顔が日常ではあり得ないほど美しい。なんというか、岡田将生の演技ってこんなに生を得てなかったっけ?となった。普通の、労働環境ににぶい青年に見えない。この役、もっと凡な演技が上手い役者立てたほうが良かったのでは?
窪田正孝さんはもうMIUで六郎として出ているから使えないけど。なら風間俊介さんとかどうですか。濱田岳さんとか。松下洸平さんも頭をよぎったけれどMIUで捕まる殺人犯でしたね…。今上げた役者は顔がどうではなく、私は彼らの演技が本当に好きなのだ。顔がノイズになることがない。ルッキズムを発揮してしまう役者、本当に岡田将生だけなんだ。
でも、演技を懸命にしているのに美しすぎる顔が演技のノイズになって、何をしても評価が顔に終着してしまう自分の考えが本当にキツい、彼は役者なのに。「星の子」の先生、本当に嫌なやつでよかったと思うのに、「ラストマイル」の演技は役があってなかったなと思うのだ、演技力は今の方が磨かれているはずなのに。
岡田将生さんを外見抜きで、演技で、作品で評価できるようになるまでルッキズムが潰えたとは言えない。わたしはルッキズムが憎らしいのに。あーあ。となる。
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おそらく、脳内で思考が行われている時は集中できる。特に何かと何かの要素を論理づけたり、組み合わせて活用したり、新たな発見を得ようとしているときは集中できる。例えば、今この文章を書いている私は集中しており、他のコンテンツに手を伸ばそうとは思わない。この場合、他の脳を回す要素(動画など)を並走させることは集中の阻害にしかならない。
一方で、脳を働かせない作業は全く集中できない。私は絵をあまり考えて描いていないから集中できない。その良し悪しはおいておいて、何も考えていないからこそどこかで頭を回すことを求めてしまい、Twitterに行く。作業通話の方が集中できるのも、通話によって脳の処理が走っているからだと思う。だからこそ、娯楽であり脳を回転させる必要のないYouTubeよりも頭を処理する題材に溢れている「100分で名著」が作業に向いている。
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